■ 妖精のレッスン(上)

妖精のレッスンーじぶんを見つける50のレシピ 1-25

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1.妖精 天使じゃないんだから

私は、ジジ。ある夏、空へと舞いあがった花火の火の粉から生まれたのです。性格は、情熱的。1日に3回、死ぬほど激しい恋をする(食事まえには別れるけれど)。仕事は、空を飛ぶこと。それから? それだけよ。飛ぶだけなの。こうして、夜を遊覧飛行していると、いろんな秘密を見てしまう。

お月さまが紳士のふりして、酒場で「月影のナポリ」を唄っていたり。某国の王妃が某国のスパイと恋におち、東京タワーでデートしてるの発見したり。あのときは、2人がキスする瞬間、星の粉をパラパラふりかけた。ふたりともくしゃみがとまらなくなって、ハハハハ。え、くだらないって? 妖精なんて、こんな程度よ。私たち、天使じゃないんだから。あらら、あの窓の女のひと、どうしたのかしら。服を部屋中にちらかして裸で泣いてるわ。


2.服 見つかったじゃない!

ジジは、その窓のすきまから、部屋の中へと入りました。ほのかは、涙にぬれた目で、自分のひとさし指くらいしかないジジをみつめました。「着る服が、ないのよ」「こんなに部屋中にちらばってるのに?」「服はいっぱいあるわ。クライアントと会うときの上等なスーツ、ちょっとしたパーティーに着るシルクのドレス。通勤用のベージュのパンツ、流行色のタートルネック……」「あたしなんか、木の葉でつくった、この緑のミニと、くもの巣製のロングドレス。今はそれだけよ」

「でもさっき、散歩したくなって、着がえようとしたら、服がないの。何を着ようとしても、どれもこれも、ぬぎたくなるの」「1枚くらい、安心して着られるのがないの?」 ほのかは引き出しをいくつかあけて、奥から、ピンクの布きれをひっぱり出しました。くたくたの綿でできた、古ぼけたワンピース! 「見つかったじゃない!」ジジはお祝いのために、くるくる部屋の中を飛びまわりました。

「こんなの着られないわ」ほのかは絶叫しました。「だって高校のときのだもの。安っぽくて、古ぼけて、コンビニにも着てけやしない!」 ジジは、ほのかの瞳のまえまで飛んでいき、その瞳の奥をじーつとみつめていいました。「いい? ボロだろうが、変だろうが、今のあなたがやすらげるのは、このクタクタの服だけなのよ」「そのとおりだわ」ほのかが、ふーっとため息をつきました。「これが本当の、今の私なんだわ」


3.春風ほのか ある3月の真昼に

58代前のおばあちゃまが、ある3月の真昼に風に吹かれて……。春風っていうミョウジになろうと決めた。私の生まれたのも3月で、ほのかにひなげしの香りのする病院でした。だから、春風ほのか。年齢は、ティラノザウルスよりは若く、子猫のミイよりは年上の28歳。両親は、ごく普通のよい人たち。妹とも仲がよいわ。幼稚園から高校までエスカレーターであがり、第一志望の大学を卒業して、有名な広告会社でコピーライターをしていました。

恋人の桐原ケントとは愛し合っていたし、友達も多くて、私は一生幸せだと思っていたわ。だけど、この半年で、すべてがくずれたのです。ある仕事で、私は失敗してしまった。まわりの視線が冷たくしみた。私はコピーが作れなくなった。退職は、当然の結果だったわ。入社当時、あれほどちやほやされたのに、やめるときは誰もふりむいてくれなかった。

同じ頃、ケントと別れたの。9年もつき合って、死ぬまでいっしょのつもりだった。彼は変わり、親も「やめなさい」と言い出した。ケントの冷たさ、親の手強さ、それも想像以上だった。友達に相談したら、留学、再就職、お見合い……いろいろ勧められたけれど。そんなふうに表面だけとりつくろっても、私の苦しみは解決できない。今までの自分は、ぬけがらの自分だったの。「中身」を見つけたい。今、ここで生きているという実感がほしい。


4.月の光 ピーターパンみたい

ほのか「あなた、誰?」 ジジ「あたしは妖精。このアイデンティティが気にいってるの」 ほのか「妖精ですって。あたし、おかしくなったのかしら?」 ジジ「あなたは?」 ほのか「わからない。ただの人間……」 ジジ「あら、それで充分じゃない」「人間の一生なんて、短いのよ。もっと遊んだら?」 ほのか「遊んでも、遊んでるフリしてる自分なの」

ジジ「将来の夢は?」 ほのか「まえは……仕事して、結婚して、ときどきオペラやバレエを見たり、友達とパーティーしたり」 ジジ「なんだか女性誌に出てくる理想の生活そのままじゃない。今は?」 ほのか「放浪でもしたい気分。でもケントは、私にはそんなことできないっていうの」 ジジ「雑誌の影響。彼の影響。親の影響。あなたから、誰かの影響を引き算してみたら?」 ほのか「透明人間になってしまう」

ほのか「自分を探したいの。手伝って」 ジジ「いやよ。あたしはそんなに親切じゃないもの」 ほのか「あなたみたいに、自由でチャーミングで、美人になりたいのよ」 ジジ「そうね」と得意そう。「しかたないわね。ついていらっしゃい」 ジジはほのかの頭上で体をふるわせ、金色の粉をふりかけました。ほのかの体がふわっと天井まで浮かびあがりました。「うわ。ピーター・パンみたい」

気づくとほのかは、ピンクの服の似合う少女になっていました。ジジが夜空へ飛びだしました。「待って」ほのかも窓の手すりに立ち、えいっと闇に飛びこみました。「落ちるーっ」と目をつぶったのですが、体は風にのって、ふわふわと浮かんでいます。なんて気持ちがよいのでしょう。くたくたのワンピースが、銀白の月光を浴びて、まるでピンクダイヤモンドの輝きでした。ほのかはよたよたと飛びながら、先を行くジジを追いかけました。


5.東京タワー 夜空に大きなAの形

ジジの飛ぶほうへよたよたついていくと、夜空に大きなAの形が浮かびあがりました。銀の霜とオレンジの炎にいろどられ、冷たく、神々しく、TOKYOの夜に君臨しています。ほのかの目に、少しずつAの形が近づいてきて、やがて圧倒的な大きさとなって立ちはだかりました。東京タワー。そのピンととがったてっぺんを、ふたりはすいすい飛びまわりました。

ジジが、てっぺん近くの鉄枠にこしかけたので、ほのかも並びました。お尻が一瞬ひやっとして、ゆらり体がゆれたかと思うと、鉄棒みたいにくるりとひとまわりしてしまいました。隣りでジジがキャハハハとお腹をかかえて笑っています。宝石箱をぶちまけたように、光の粒がまたたいています。ときおり地上から塔をつたい、風がはげしく吹きあがってきます。不思議なことにちっともこわくない。それより、なんて気持ちいいのだろう。「ここがジジのお気に入りの場所よ」 あたしのいちばん好きな場所はどこなのかしら。


6.自分を探す図書館 金の光がまたたく巨大なブラネタリウム

ここはどこだろう。あたりは重くかすみがかって、なにも見えない。空気はひんやりと冷たく、足もとにはやわらかな砂がしきつめられている。砂漠だろうか。空もただぼんやりと青いだけで、そこはちかちか金の光がまたたいている。夜? それとも巨大なプラネタリウム? 「図書館よ」ブッキラボーなジジのことばに、ほのかは正真正銘おどろいた。本なんかないじゃないの。「広すぎて、本棚がよく見えないのよ。ここはちょうど真ん中だから」

ジジがほのかに双眼鏡を手渡した。のぞくと、信じられなかった。まるでコンパスで円を描いたように、まわりはぐるりと本棚なのだ。それは高くそびえたち、双眼鏡をせいいっぱい上へ向けても、かすみがかっててっぺんが見えない。星かと思った金の光は、本棚の照明だった。「ここはなんなの」「自分を探してる人のための図書館よ」そう言ってジジが飛び立ち、ほのかを呼んだ。空を飛べる人の図書館でもあるんだわ、とほのかは思った。歩いて本を探すなら、寝袋をかついで、1週間は泊まりこまなくてはならない。

着いたのは、小説のコーナーだった。あらゆる色の背表紙が、配色の妙を見せて並び、まるでミッソーニのニットのようだ。よく見ると、モーム『かみそりの刃』、トルストイ『アンナ・カレーニナ』、村上龍『ヒュウガ・ウイルス』、坂口安吾、稲垣足穂――ほのかの好きな本がずいぶん混じっている。ふわふわ横に飛んでみると、そこは童話コーナーで、アンデルセンやグリムはもちろん、ムーミン・シリーズ、ホフマンや宮澤賢治……。「他にはね、哲学・心理学・精神世界・生物学なんかもあるのよ。自分を探す手がかりになるなら、分野は関係ないの」ジジが説明した。「そうそ。漫画もあるわ。あたしはここで、萩尾望都と『エヴァンゲリオン』を読んじゃった」

「だけど」ほのかは途方にくれた。「どうやって本を探すの。本のタイトルを読むだけだって、頭が痛くなりそう」「だいじょうぶ。今、あなたに必要な本は、必ず見つかることになってるの。2、3周飛びまわって、手当たり次第に本をぬきとればいいのよ。それがほのかの借りる本よ」そういってジジが、あたりをゆっくり旋回し始めた。ほのかもつられて、宙を泳いだ。「それにここは、いらなくなるまで…借りられるのよ」今度はジジは、逆立ちしながら飛んでいた。「なかには3代にわたって借りた人がいるわ」「それじゃ、次の人がこまるじゃない」「平気よ。その人が本をいらなくなったとき、ちょうど次の借り手が現れるのよ」ジジはくるりと宙返りした。

ほのかはスピードを出しすぎて、絵本の棚にぶつかりそうになった。なんて楽しい図書館でしょう。「もうひとつ忘れてたわ」遠くから、ジジの声が響いた。「借りられるのは、その人の年の数だけ」「28冊は持てないわ」とほのか。アハハハハ、はるかかなたでジジが笑った。ほのかは天までのぼり、白い本を1冊抜きとった。足もとから赤い本を1冊、そこで右へ旋回し、青い本を、斜めに飛んで、すみれ色のを、それから正反対まで一直線に飛び、緑のを1冊。全部で5冊。

どこで手続きすればいいのかな。ほのかがあたりを見渡したとき、両こうから、小さなジープがトトトトとやってきた。「本は決まりましたか」運転席から飛び降りたのは、青い服を着たうさぎだ。「私がここの図書館員です。手続きは私がいたしますよ」うさぎは本を受けとると、それぞれ最後のページをめくり、自分の手型をスタンプした。それから、すみれ色の本に目をとめた。「おや、この本。たった今、返却されたばかりですよ。作者は若い水の精で、今はアフリカに住んでます」 表紙には『妖精詩集』と書いてあった。


7.妖精詩集 どっち?

恋を失った苦しみと、奥歯を失った痛み、どっちが大きい? 鎮痛剤を探しながら あたしはいつも思います。


8.弱くなるレッスン いやだわ。強くなりたいのに

「今日は、弱くなるレッスンです」ジジが眼鏡を少し持ち上げていいました。「いやだわ。強くなりたいのに」とほのか。「弱くなることは、強くなることなの」そういって、ジジはえへんとせきばらいしました。「ほのかはがんばりすぎたのよ。今まではそれでうまくいったけど」「理想のあたしに近づきたかっただけ」「大きくふくらませたカエルのお腹よ。いつかはパチンと割れちゃうの」

「弱くなったら、泣いてしまう」「それはよいこと。涙は自己解放ですもの」「みっともない自分をさらけだすのね」「みっともなくなんかないわ。弱くても、強くても、そのときの自分でかまわないの」「ありのままでいいのね」とほのか。「そ。弱い自分もあいしてあげて」ジジ先生が色っぽくいいました。


9.カウンセリング 強がる必要のない場所

「弱い自分を受けとめてくれるのが、カウンセラーよ」とジジ。「なんでも話していいのね」「そ。強がる必要のない場所。弱くなるレッスンには最適なの」「受けてみるわ」とほのか。

(a) フェミニストぎつねのカウンセラー
「ケントと別れてから、ごはんがのどをとおらないんです。死んでしまったみたい」「あなたは今まで男の人に従属して生きてきたのよ。つまり、自分がなかったのよ。死んだんじゃなく、やっと生き返ったところじゃない?」「でも」「もうすぐ30でしょ。もっとしっかりしたらどうなの」 不安があるから、相談に来たのに……。

(b) おじさんグマのカウンセラー
「私は今までがんばりすぎた。人に甘えるのが下手なのかも……」「かわいそうに」おじさんぐまが手をさし出したので、ほのかはしかたなく手を握りました。「おじさんをお父さんと思って。ときどき甘えに来てごらん」「は、はい」でも、そういう問題ではないんじゃ……。

(c) ビジネスおうむのカウンセラー
「彼は精神的に不安定で」「彼ではなく、自分に問題があったのよ。それに直面するのよ」「私に問題が……?」「きっと両親に、本当に愛されなかったのね」かわいそうね、とおうむはほのかを眺めました。「来週は心理テストをしましょう。2万円別途にかかります」「あの、またにします」「あら、結論いうのが早すぎたかしら」

(d) 哲学うさぎのカウンセラー
「苦しくて、突然バスからおりたくなったり……」「それでいいんです。自分の気持ちに気づいていらっしゃい。自分が今、こう思ってるとか、こう感じてるとか、そういうことに気づいてればいいの。そのうち苦しさからぬけでることができます」クリシュナムルティの教えと同じだわ。ほのかは図書館で借りた緑の表紙の本を思い出した。そしてやっと味方になってもらえたと感じました。

「カウンセラーは、何人かあたってから決めたほうがいいみたい」とジジ。「ひどい人に会ったら、よけい落ちつかなくなる」ほのかは実感していました。「でも、いい方とめぐりあったら……」ジジがいうので、ほのかはうっとり、あのやさしい哲学うさぎを思い出しました。「すごく幸せ……」とほのか。「そこまで言ってもらっちゃうと……」ジジがなぜだか照れていました。


10.夏の夢

青い煙がおりてくる。ドアをあけると、夜の道。半月とスフィンクスがケンカしてる。ハゲタカが大きな翼で仲裁に入る。ほのかはこわくて、金色の帆船に乗って、逃げた。時間の抜道をすらりワープし、まよいこんだのは、星くずのスクラップ工場。プラチナに光る廃虚をぬって、金粉の、船がただよう。舵をとっているのは―― ねえ、フック船長、お願い。私をさらわないで。呼んだのは、20年前よ。あなたがピーター・パンだったころ。冥王星なんて、行きたくないわ。


11.精神科

涙がこぼれて、とまらない。電車に乗っても、スーパーでも、ビルの屋上でも。水泳教室で、突然、プールから飛び出したくなり、脂汗がふき出す。美容院でカットされてるとき「もう帰る!!」と叫びたくなったり。うつ病なんでしょうか、先生。ほのかは精神科に来ていた。一時的なうつ状態ということはできますね。眼鏡を光らせ、医師が答えた。軽い風邪ですよ、と告げる言い方に似ていた。風邪で学校をやすんだ朝。ふとんにもぐると、ぬくぬくしてあたたかった。病院の空気には、そんなふうなやすらぎがある。弱いとこがあるから、ここに来たのだ。だから、わざと元気な顔しなくてすむ。患者って、すごく楽。のんびりできる。薬局で精神安定剤をもらい、ほのかは病院を後にした。

「どうだった?」ガラスばりのカフェテリアで、洋梨のショートケーキをほおばりながらジジが聞いた。「いちばん印象的だったのは、待合室でとなりにすわってた男の子だったわ」 19歳だ、と彼は言った。すらっと背が高く、長い指のきれいな子だったが、顔色が少し青白かった。「ディカプリオ系? それとも武田真治ぽかったの?」ジジは美少年にはミーハーなのだ。「そういう問題じゃないのよ」 ひとりで来たの? と彼は聞いたわ。長いまつげをふるわせながら。あたしがうなずくと、すごいね、と続けた。「ぼくは1人では出歩けないんだ」母親が送り迎えをするのだと言った。

学校の休み時間、校庭でガラスのカケラを拾った。青くて、きれいで、だけどとがってて、危険だった。そのとき突然、何もかもこわくなった。叫びだしたかった。そのまま家まで走ってもどったのだけど、あのときの自分は、きっとムンクの「叫び」と同じ顔をしていただろう。家から出ることができなくなって、毎日、毛布をかぶって、ふるえていた。それから中退し、今は家と病院を往復してるだけなんだ。「ひとり暮らししてるなんて、いいな」 彼から見たら、ほのかはどれほど元気に見えることだろう。軽い分裂症なのだ、と彼はつけ加えた。

ガラスごしに、OLたちが数人笑いながら通りすぎた。「街を歩いている人って、どうしてみんな明るくて健康的なのかしら」ほのかはつぶやいた。精神科の待合い室とは、コインの表と裏みたいにちがってみえる。どちらも現実のTOKYOだというのに。「そんなふうに」ジジがほっぺに生クリームをちょんとつけて言った。「見せてるだけかもしれないわよ」 ガラスの向こう側を、大きなカバンを下げた紳士が足早に歩いていた。時計をちょっと見て、速度を早めた。


12.エルメス ほしいのは今じゃないの

「今日は、好きなものを買うレッスンです」とジジ先生がいいました。「ジジがお金くれるの?」とほのか。「まさか。自分のお金だから、スカッとするんじゃない」「貯金には限界があるのよ。まして失業中……」「ほしいものがあったら、買っちゃえ、買っちゃえ。衝動買いは、powerの源よ。ただし今日だけ。あしたは、『貧乏な日』というレッスンだから。今、ほしいのは?」

「焼きたてのほかほかパン、青いリボン、風の香りのオードトワレ、ピンと耳のとがった子猫、それからね、エルメスの靴!」「さあ、全部、買いにいこう」「ちょっと待ってよ。エルメスは外国でしか買わないことにしてるよ。そのほうがやすいと思うし」「せこい。せこい。ほしいのは今じゃないの。今、この瞬間を大切にするのよ。さあ、出かけよう!」「そうね。せっかくだからおしゃれして買いにいくわ」

毛先をお姫さまみたいにカールし、淡いオレンジのワンピースを着たほのかが、エルメスのドアを押しました。左手に持ったショッピングバッグには、焼きたてのフランスパンがのぞいている。バッグの中には、青いリボンや風の香りのオードトワレや、そのほか大好きなものばかり。子猫は赤い首輪をつけて、ほのかの足もとにじゃれついています。「いらっしゃいませ」「靴を見せていただける」「こちらへどうぞ」

ああ、ほのかの目のまえには、あこがれのエルメスの靴がピカピカと、気どって、ほほえむみたいに並んでいる。「あれを試したいの」ほのかが指した黒のローファーは、ケリーバッグとおなじ金具がついていました。「お待ち下さい」 細みの靴に足をすべりこませると、ああ、幸せという感触がする。2、3歩、歩いてみました。ここはモンゴルの草原かしら。そんなやわらかな、はきごこち。

もう手離せない。エイッと心でかけ声をかけて、「いただきます」と言ってしまった、はるかぜほのか。値段はいつもの5足分だというのに。「ありがとうございました」 ドアをあけると、レモンイエローの風でした。スキップしたい気分。いちばんほしいものを買うって、自分を愛してあげることなんだわ。明日は楽しく貧乏しよっと。


13.退行催眠 昔のほのかに会ってみない?

ガーベラの花びらが散った。ほのかはテーブルに頬杖をつき、それをぼおっと眺めていた。「その顔、子どもみたい」ジジが突然、声をかけた。「ほのかって子どものころ、かわいかったでしょ」「かわいくなかったの」ほのかはひとごとみたいに答えた。「すなおじゃないっていつも言われてたわ。思い出したくもない」「ね、昔のほのかに会ってみない?」ジジが1枚のちらしをひらひらさせた。「これ、さっき窓から飛んできたの。催眠術で過去に戻れるんだって。あたしなんか、過去も、未来もすいすい移動できるけど、人間は不便だからね。こんなのどう?」

「いやーよ。興味ないわ」ほのかは冷たく断った。「あ! 自分がだれだか知りたいとか言ってたくせに」妖精はツンと頭をそらすとどこかへ飛んでいってしまった。放りだされたちらしが風に舞い、ほのかの手のひらにすっぽりおさまった。“ヒプノセラピーで、自分を探してみませんか” 大きな活字が目に入った。ヒプノセラピー、耳なれないことばですね。アメリカを中心に全世界で注目されている心理療法なのです。催眠状態になることで、不安感やコンプレックス、トラウマなどを克服することができます。催眠状態といっても、現実の音も聞こえるので心配はいりません。短期間で効果があがります。あなたもいかが。

ほのかは、ドアをあけた。そこは広いリビングで、ミルクオレンジのファブリックがやさしく目に飛びこんだ。部屋の中ほどには、避暑地の庭にでもあるような、テント地の簡易ベッドが置いてある。「ようこそ、マドモアゼル。春風ほのかさんですね。ここに横になって下さいますか」そう声をかけたのは、フランス人のヒプノセラピスト、アルベール・サルルだった。黒いタートルに黒いパンツ、ハンサムではないけれど、なかなか雰囲気のある青年だ。横になったほのかに、サルルが絹糸で織った大きなショールをかけてくれた。知らぬ間に照明が落ちている。

「これから何がみえるかは、わかりません」サルルが唄うような日本語で言った。「今のあなたに必要なものだけが見えるのです。心配しないで。リラックスしてね」 ほのかは目をとじ、暗闇の中にゆったりと浮かんでいた。「さあ、階段が見えますね。1段ずつ、ゆっくりと降りて下さい。1つ、2つ、3つ……空気は冷たいですか。あたたかいですか。風を感じますか。においはどうですか。さあ、いちばん下までつきました。目をとじたまま、まえを見て下さい。なにがみえますか」 泣いてるわ。女の子が。「いくつくらいの子?」 6つか、7つかしら。「どんな服、着てる? 髪型は?」 おかっぱで、チェックのスカートはいてる。

「なぜ泣いてるのか、聞いてあげて」 なぜ泣いてるの。こっちをみてるけど、けいかいしてるみたい。「あなたにまだ安心してないのかな」 さあ、安心して。あたしのとこに来て。ほのかちゃん、あたしはあなたの味方よ。「今、ほのかちゃんて呼んだ?」 ええ、あの子は私なの。あ、やっと近づいてくれたわ。あたしのひざにすわってくれた。「じっと抱きしめてあげて」 なぜ泣いてたの。おかあさんにね、お耳にお話したらね、ないしょ話はいけません。大きな声でいいなさいっておこられたの。そう、びっくりしたのね、ほのかちゃん。ないしょ話っていけないことなのね。あたし、わるいこなの?

ちがうのよ。そのときおかあさんのお友達が来てたでしょ。だから気をつかったのよ。ほのかちゃんはちっとも悪くないの。ただ、かわいそうだっただけ。さあ、安心して。泣くのは、やめて。「ほのかちゃんを、どこかとっても楽しいところへつれてってあげて下さい」 ほのかちゃん、さあ、いっしょにタヒチの海へ行こうね。タヒチって、なに? アタミのこと? ほら、ここがタヒチよ。うわあ、なんて空がきれいなの。なんて熱いの。海がキラキラ光ってる。すごーい!! ね、海の中をのぞいてごらん。あ、お魚がいる。まっしろのお魚が、あたしの足をつっついた。アハハハ。

「ほのかちゃん、笑ってるみたいだね。これからときどき、連れてってあげるといいね。小さなほのかちゃんの保護者になって」 ほのかちゃん、またいっしょに遊ぼうね。いつでも、おねえさんに甘えてね。うん。――涙がでるのは、どうしてだろう。あんまり幸せで。「さあ、ほのかちゃんにさよならをして」 『ほのかちゃん』ほのかはもう一度、小さな体を抱きしめた。自分がこんなに小さいって知ってたらよかったのに。いつも自分は大きいって思ってた。おかあさんがそう言ってたから。おねえちゃんだから、しっかりしてねって。

『ほのかちゃーん』 誰の声……? 『お母さんだ』 小さいほのかが、そちらへ駆けていった。『今、お花屋さんでガーベラ買ったのよ。ほのか、好きでしょ』 うわ。すごい。いっぱい。あふれるほどのガーベラを抱え、小さなほのかに話しかけているのは、まだ若い女の人だった。今のほのかとほとんど同い年くらい。お母さんも、若かったんだ。世間体が気になって、ときどききつい言い方をしてしまう、まだ未熟な20代の女性。子どもを愛してはいるのに。また涙が――どうしてだろう。

「さあ、マドモアゼル、ほのかちゃんは家に帰りました。あなたももどってきて下さい。階段が見えますね。のぼって。1、2、3、4、5、目をあけて下さい」「どうですか」 まっしろな気分。部屋のガーベラが、ひとひら、ふたひらと散ってゆく。ほのかがほおづえをつきながら眺めていると、ジジが帰ってきた。「あ、また子どもみたいな顔してる」「そう?」ほのかが、かすかに笑った。「あらやだ、笑ってる。このあいだはイヤがってたのに」ジジが不思議そうにつぶやいた。


14.冷たい音楽 妖精は温度計を内蔵してる

「音楽にも温度があるのよ」ジジが言うので、「どうやって計るの」ほのかが聞きました。「妖精は温度計を内蔵してるの」「ふーん」 楽器でいえば、バイオリンよりピアノが冷たい。ジャンルならロックよりジャズ。演奏の熱っぽさとは関係ないそうです。ワーグナーやベートーベンは熱い。エリック・サティ。これは飛びっきり冷たい。『官僚的なソナチネ』『潜水人形』あたりはイギリスの冬クラス。『冷たい夢想』は北欧まで行ってしまう。「そういえば北欧の海底を正装した紳士が歩く……そんな感じがするわ」ほのかも納得しました。

「サンバは、凍ってしまった炎。ジョアン・ジルベルトの『三月の水』あたりがカチカチに冷たい」「ヘンデルの『水上の音楽』はどう?」ほのかが聞くと、「あれは、湖の真中に浮かんでるインドのお城の涼しさってとこよ」ジジがすまして答えました。「じゃ、いちばん冷たい音楽は?」それを思い出しただけで、ジジは小きざみにふるえていました。あの夜、恋人の妖精とふたりで北極の満月を浴びに出かけたのです。ふたりが氷の上で肩をよせていたら、グアーッゴオーッとすごい音がして、くじらの群れが浮かびあがりました。

なにかの集会なのでしょうか。マッコウクジラやナガスクジラ、ありとあらゆるクジラがいます。そして合唱が始まりました。グアーッゴオーッガオーッ。かわりばんこに潮を吹き、その潮が凍って、まるで氷の柱の林です。そこに青白い月の光がふりそそぎ、冷たく輝き、巨大なカラダが黒びかりして……。寒さとこわさと美しさと、背すじも凍ったあの夜。グアーッゴオーッガオーッグエーッ。声をはりあげる鯨の合唱。「あれほど冷たい音楽はなかったわ」ジジがまだふるえながら言いました。


15.坂道

ほのかは、いつの間にか坂道に立っていた。道幅は3メートルぐらい。なだらかな斜面で、走れば2~3分で降りられるだろうか。あたりは住宅街でしんとしている。坂の下方に、上等な魚を扱う小さな店がある。何も変わっていない。ほのかは思った。この坂道のことなど、20年近く忘れていた。ここは小学校へ通う道だった。入学したての頃は、年上の女の子に手をひかれて坂をのぼった。髪が長くて、ふっくらしたほほの人だった。

2年生のとき、途中に大きな犬が立ちはだかり、吠えまくっていたことがある。みんなするりとすりぬけるのだけど、ほのかはなかなか通れなかった。やっとすりぬけたときは遅刻しそうな時間で、必死に走ったのを覚えている。初めてばらがきれいなのに気づいたのも、この坂道だった。4年生の5月。その日、垣根に黄のばらが咲き乱れていた。ほのかはスキップしていた足をとめた。花びらは、すみっこがくるっとまくれあがり、女の子のくちびるにも似ていた。みずみずしく、薄い花びら。ふれるとしっとり冷たくて、ほのかの小さな手のひらに黄の色が映りそうだった。

「ね、木下さんち、知ってる?」 髪の長いへんなおじさんに声をかけられたのは、同じ頃だったか、もっと後か。「あそこ」お絵かき教室帰りのほのかは、聞かれた家を指さした。「ちょっと、ちょっと」おじさんが、その先にある細い路地から手まねきをした。「なに?」ふらふらとほのかが路地に入ると、おじさんの大きな手で口をふさがれた。坂道を親戚のおばさんが買い物かごを下げて歩いていくのが見えた。叫びたいのに、声が出ない。どのくらいそうしてただろうか。突然、おじさんが手をゆるめた。ほのかは路地をとび出し、泣きながら坂道をかけ降りた。

ポツポツと大粒の雨がふり出し、どしゃぶりとなった。ほのかは雨の中を、家まで必死に走り抜けた。2階で洗濯物をたたんでいるお母さんを見つけると、すがりついてわあわあ泣いた。窓から坂道を指さして、「あそこで、あそこで」と声にならなかった。外はすっかり暗くなり、雨はいっそう激しく降っていた。ピカッ。そのとき、坂道のまうえに、ギザギザの赤い大きな稲妻が浮かび、少しずつ大きさを増したかと思うと、あっという間に空いっぱいに広がった。ほのかは今、その坂道に立っていた。自分の28年間の人生が、数多くの忘れてしまった思い出の積み重ねでできているのを実感した。しばらくそうして、たたずんでいた。


16.毛糸の冒険 几帳面な人には向かないわ

ぶるるる…… 木枯らしの吹き荒れる街角にて。コートの襟をたて、うつむきがちに歩くほのかと、エメラルドグリーンの固まりがごっつんことぶつかりました。「あら、春風さん」緑色がふわふわと笑いながら言いました。「まあ、冬丘さん」ほのかもびっくり。冬丘雪子は有名なイラストレーターで、ほのかも何度か仕事をしました。パステルを使って、色っぽい女を描く人です。「なんて、きれいなセーターなの」ほのかは眼を細めました。冬丘さんのセーターは、スコットランドの原野といった感じ。ぬけるようなエメラルドグリーンにときどき黄やオレンジが混じり、明るくてまぶしいほどです。

「ありがと。自分で編んだのよ。これはね、毛糸の冒険旅行……」「冒険って何? 冬丘さんみたいに忙しい人にも編めるわけ?」「そ。ちがう言い方をすれば、メチャクチャ編み。だからかえって、思いがけなく自分の内側がセーターに映るの」「あたしは編み物ってダメだわ。几帳面じゃないし」ほのかはため息をつきました。中学生の頃、挑戦したことがあるけれど、凝った編み地だったので、ふた冬もかかったのです。「あ、几帳面な人には向かないわ。なにしろこれは、毛糸の冒険なんだから」

1時間後、ほのかのまわりには、買ったばかりの毛糸玉がごろごろしていました。冬丘さんの冒険を、自分も試したくなったのです。ほのかは編み棒を手にとると、いちばん気にいった、フランス製のピンクの毛糸で編み始めました。「さあ、出発だわ」とにかくメリアス編み、メリアス編み。この冒険セーターは、何段表編み、それから裏編み――という面倒くささ、一切なし。気が向くまでメリアス編みを続け、あきたらときどき色を変えて、またメリアス編み、メリアス編み。ときおりグレーがナイフの切りキズみたいに混じります。オレンジやブルーも花のように編みこんで。

広げてみると、なんかちょっと変。バランスがくずれてる。「危ない!」 ほのかは押し入れの奥から、余り毛糸の小箱を持ってきました。草色、藤色、レモン色…。すこしずつ足して軌道修正しましょう。「うん、危険はまぬがれたみたい」 1、2、1、2、編むのって、最高に気持ちいい。1、2、1、2。おもしろくて、やめられない。1、2、1、2、心臓の鼓動に似てる。1、2、1、2、棒先に神経が集中して、雑念がふわあっと空へぬけていく。瞑想の境地。セーター付き。1、2、1、2、朝も夕も、嵐の夜も、快晴の真昼も。失敗したら……猫のクッションにでもすればいっか。

「わあ。できあがったわ」表と裏。そして左右の袖。みんな色みのちがうセーター。最後に仕上げた左袖なんて、細かくくるくる色が変わり、芸術がバクハツしたみたい。「どうなるかと思ったけど、なかなかきれいじゃない」 そう、このセーターは、ピンクにけぶるアンズの森に、いろんな野烏が飛びかってる。そんな感じ。「どう、ジジ、あったかいよ」ほのかは作品! を抱きしめました。「ふーん。ほのかって一見しずかそうなのに、中身はバクハツしてんのね」ジジが感心したように言いました。これを着てアラスカへスキーに行こうかな。それともアイスランドでトナカイに乗ろうか。ほのかはすっかり冒険家になっていました。


17.花のお風呂 ひとり暮らしのぜいたく

ひとり暮らしのぜいたくは、お風呂。ピチピチと鳥が鳴くアーリー・イン・ザ・モーニング。日ざしをはだかいっぱい受けながら、湯舟につかって、ちゃっぽん、ぴっちゃん、はねを飛ばす。ペパーミントグリーンの壁に――これは私がペンキで塗ったの――水滴がつつーっとつたうの、じっと見てる。あったかな幸せ。永遠に続けばいいな。実際に、ほぼ永遠に続けちゃう日もあるの。今日はオフの日って決めたら。朝から、バスタブでミステリーを読む。手にしてるのはカンパリソーダの赤。お湯にうつると、椿のぼってり花の色。ときおりぽったん2、3滴こぼすと、ほんのりピンクがかってシックな酒ぶろです。

疲れたら、あがって、今度は、ベランダごしにはだかで日光浴。はだかでお昼をつくり、コオヒイを飲んで、しばらく、ぼおっとして、またお風呂に入っちゃう。こんどはブラッサイの写真集を眺めながら。夜は、シャンパンとお風呂。グラスの中のシュワシュワをしーんと聞いてる。小さなお皿にピスタチオ。隣りの部屋からサンバがながれて。ここは4階だから、のぞくのは、すずめとそよかぜとお月さまだけだもの。「あたしがいるでしょ」ほのかがにらんでる。本当はひとり暮らしじゃないの。でも友達だもん、気にすることないわよねえ。

はだかの1日のデメリットは、パスタを妙めるとき、油がとぶと困ること。だからエプロンを忘れずに。はだかの1日のメリットは、ゴーギャンの恋人だったタヒチ娘のように、のんびり気分になれる。少しセクシイでもある。ブリジット・バルドオは夫のバディムの前で、毎日はだか。それであんなに色っぽくなったらしい。ほのかといても、セクシーにはなれないけど。ま、それはどっちでもいいの。あたし、今のままで充分色っぽいから。

花のお風呂にするときもあるわ。花はお風呂のために咲くんじゃないけど。今にも、おちそうな花びら、あるでしょ。もあっとした感じにもりあがって、ガクからはなれかかってる花びら――これをむしってパラパラと浮かべる。1本が、1日分。今日はガーベラ。ほっそりしたオレンジの花びらが水をくぐって、浮かんだり、沈んだり。あるかなきかの香りがする。バスタブから出たとき、ひとひらふたひら、体にはりついてるのも風情よ。はくしょん。「ジジ、風邪ひいたんじゃないの」「ご心配なあく!」ああ、いい気持ち。手離したくないジジの幸せ。


18.凶暴な愛 あの子は自分に正直なだけ

罌粟(ケシ)の花畑で出会った少女――切れ長の瞳にあどけないくちびるがかわいかった――が、私を見ると、微笑を浮かべてささやいたの。「あの女を殺すためなら、どんなことでもするわ。あたし。心臓をえぐり出す。そしてギザギザに切りきざむ。呪う。毒薬をしかける。なぜって? 女とはそういうものだから」

罌粟の花粉を指先にこすりつけながら、少女はぬいぐるみの話でもするように、また続けたわ。「本を読んだら、男もそうなのですって。昔、イタリアの貴族が、愛する女を手に入れるために、その夫を平然と殺して川に捨てた、そして何くわぬ顔で女をなぐさめ、結婚したというの。亡霊に痛めつけられるのは、あわれな現代人よ。中世フィレンツェの貴族は、なんてことなく幸せに一生を終えたのですもの、あたしだって」

そのとき、恋人のおじさまが迎えに来たのよ。そしたら、少女はうさぎみたいに飛びついて、私に手をふると、行っちゃったの。「恋人って?」ほのかが、こわごわ聞きました。「ほら、あのドーベルマンを飼ってる大学教授よ。ほのかも知ってるでしょ。あそこの奥さん、いつもきげんが悪いのよね」ジジがどってことなさそうにこたえました。

「ね、教えてあげたら。危険だって」「ほっときなさいよ。あの女の子は自分に正直なだけ。妖精だって人間だって、だいじなもののためなら人は何でもするんだわ」「でも、犯罪は……」「ほのかだって知ってるでしょ。人間は凶暴なのよ。そんなはずない。と思う人は、地球上の安全なほうの半分に住んでる。でも、おもしろいのは、残りの半分よ」


19.宝石 スピネルが、あたしを見たの

あの宝石が、あたしを見たの。あたしは通りすぎようとしたのよ。知らん顔して。それなのに、向こうが見たの。あたしが「だめよ」って目で断ると、チカチカッてまたたいたわ。あたしだけに。こんなのって、初めて。今まで、たくさんの宝石を見てきたわ。好きだから、あちこちの宝石店をのぞいてきた。なかには、すごく気に入ったものもあったけど、予算がないときや、自分に似合いそうにないときは、また次にしようって、あきらめてきた。だって、装飾品ですもの。服やバッグと同じだもの。

「じゃ、今度もそうすればイージャナイ」ジジはくもの巣のハンモックに横たわり、退屈そうにあくびしました。「でもあいつはそーじゃないの」ほのかは泣き出しそうでした。「だって、あたしを見たんだもの。それに、きれいな色だった……」ほのかはかなたを夢見ています。「なんて、石なのよ」「それが、スピネルなの」「スピネル? あの昔よくルビーに間違えられた、スピネル?」「今も博物館で、ルビーのふりさせられてるスピネルよ」「そりゃ、地味だわね。もっとメジャーな石にしたら。あの石、自己主張ってものが感じられないのよ。品があるけど、おとなしくて……」

「でも、すきとおるようなピンクだった。そよ風がふいても、プルルンてふるえそうな感じなの。もともとは、コスモスの花びらだったんじゃないかしらね。きれいなだけじゃなくて、凛として品があって、子どもには似合わなそう」「これは重症だわ。買うしかないじゃない」「買うですって! 3ケタに近かったのよ」「じゃ、おやめなさい。でもこれから一生、スピネルの亡霊につきまとわれたりして……」キャハハハ、ジジが腰を折り曲げるようにして笑いました。「ひとごとだと思って……フン!」

それから毎日、ほのかはスピネルに会いに行きました。一流宝石店の高額商品のフロアは人影もまばらで、それはかなり目立つことでした。一週間目に、ほのかは貯金をおろし、半額をローンにしてスピネルを手に入れました。そうしたかったというより、そうするしかなかったからです。プルルンとふるえるほどすきとおった、オーバルカットのピンクのスピネル。ほのかはその夜、指にはめたまま、もう何年もなかったほど、深い眠りにおちました。夜遊びから帰ってきたジジは、その初対面の宝石を見て、叫びました。「まあ、このスピネルったら、ほのかにそっくりじゃない!!」 そのときチカッと宝石が輝いたのは、窓からさしこんだ月光のせいでしょうか。


20.おじさん みんな少しずつ傷ついてる

インドから女性版サイババが来日して、近所の公民館で何かするというので、ほのかも出かけてみることにしました。ただの殺風景な建物が、その日はすっかりインドのカケラでした。サリーを着たインド人、欧米人、日本人たちが受付や売店やお客の誘導などにあたっていました。売店では、線香やヒンドゥーの神々の絵ハガキ、カラフルなサリーやきらきらしたスカーフなどが売られていました。会場はビジネスマンやOLたち、幼児を連れた家族連れ、熟年の老夫婦など、あらゆるフツーの人たちでいっぱいでした。時代が変わったのだろうか――。

やがてその女性アマチが登場しました。ふくよかな中年女性で、黄色やピンクのきらびやかなサリーに身を包んでいます。話がすむと、民族楽器を持ったバンドも登場して、唄をうたい始め、インド指数はぐんぐん高まる一方でした。最後にアマチが、来た人全員を抱きしめてくれました。小さな子どもたちは外国の婦人に抱かれておどろいたようですが、泣きませんでした。逆にほのかの前にいた30代の女性はもうすぐ抱きしめられそうだというだけで、ぽろぽろと涙をこぼしていました。ほのかもアマチのやわらかくて、あたたかな体に数秒包まれました。でも少しビジネスライクだった気もして、なんとなく、次の人を見たのです。

それは、髪の白く、薄くなりかけた初老のビジネスマンでした。おそらく長く着ただろう、ねずみ色のスーツ、足もとには書類でギュッとふくらんだ黒いかばん。男性はアマチの胸のあたりに頭をあて、すがりつくように抱きつきました。赤ちゃんがお母さんに助けを求めているように見えました。あの人は、傷ついてるんだ。ほのかは思いました。おじさんたちだって、ときには泣きたかったり、誰かになぐさめてもらったりしたいにちがいない。でも役職につき、お父さんと呼ばれ、弱音を吐く場所もないのかもしれない。なんて疲れることだろうか。

先日、友人に誘われて、アルコール中毒から立ち直るための会をのぞいたのを思い出しました。会に集まったのは、気さくで、やさしい中高年の男性たちでした。会が始まると、出席者が順番に、自分の心境を話していきました。そのとき天井に、大きなセミが舞いこみ、ジジジジとうるさい音をたてました。皆が追い出そうとすると、ある上品なおじいさんが立ち上がり、やめてほしいといいました。「あのセミは、短い夏を鳴きつかれて、今にも寿命がつきようとしている。まるで自分のような気がする」とその人はいいました。

アル中の人は、お酒をのむと、家族を傷つけることもあるようです。素面のときがんばりすぎて、その反動なのでしょうか。おじさんも、子どもも、若者も、みんな少しずつ傷ついてる。元気じゃないときに元気なふりするのを少しだけやめてみたら、みんな少しずつ自由になれるのかもしれない……。公民館を出ると、黄金の三日月に照らされ、夜が金粉にまぶされているようでした。家路に向かうほのかの胸にひときわ大きな金粉が飛びこんできました。「おそかったわね」ジジは傷ついてるのをかくさずに、ぷんと怒り、金の体をふるわせました。


21.妖精のファッション 花の服は着ない

『ピーター・パン』によれば、妖精は花そっくりの服を着ているのです。百合の咲く季節には百合のドレス、コスモスの咲くころにはそれを――というふうに。美しいし、なにより人間に見つからなくてすむからです。彼女たちが好きなのは、睡蓮やアネモネのドレス。チューリップはきらい。派手すぎて、品が悪いからですって。

もしも妖精を見つけたかったら、チューリップの季節がいいらしい。妖精たちがなかなか着がえたがらないから。もしもチューリップの花壇にへんな花が1~2本まじっていたら、それが妖精かもしれないのです。「あたしは花の服は着ないの」とジジ。「ダナ・キャランのスーツやグッチのワンピースのほうが好きだわ」 都会で暮らすには、そのほうが保護色なんですって。


22.南国の夜 ここはミラクル・シティ

ほのかは、バイクにまたがっていた。ジョグジャカルタの夜である。ほのかを乗せているのは、アルタと名乗る不良インドネシアンだった。インドネシアの古都、通称ジョグジャ。ビルと遺跡が混在し、渋滞したクルマの間を、自転車タクシー「ベチャ」がすりぬけていく。街を歩けば人々が寄ってきて、たちまち知り合いだらけになる。学生、踊り子、動物園の飼育係、国立博物館のおえら方、なにものだかわからない人々。ここは、ミラクル・シティ。

アルタは、アーティストだった。夕食後、ホテルの中庭で涼んでいるときに話しかけてきた。ホテルは1泊一人2千円ほどの安宿だが、プールつきで、レストランもあり、けっこうおいしい料理が食べられた。中庭には流しのガムランもやってきて、都市のまん中とは思えないほどリゾート気分になれる。アルタは、黒く長い髪と黒い瞳、浅黒くひきしまった体つきのエキゾティックな美男だった。どことなくアブナイ男に見えないこともない。

彼はほのかよりずっと上手な英語で、近くの画廊で自分の絵を見てくれないかと頼んだ。ほのかは、人間の娘になっているジジといっしょについていった。怪鳥ガルーダをモチーフにした、抽象的な大作だった。そのあとアトリエに誘われた。ジジを見ると、たまには危険なこともいいんじゃないと言っているようだった。だだっ広い木の家には、大きな絵が数枚、立てかけられ、制作中だとわかった。

女性も含む数人のアーティストたちがここで共同生活しているそうだ。彼らは、異邦人を歓迎してくれた。ライスワインで飲み会が始まった。出された「タフ」という四角いおつまみは、食べると「豆腐」だとわかった。アルタが上半身裸になり、腰にバティックを巻きつけて、しなやかな踊りを見せた。インドネシアの男たちは、たいていこうして踊るか楽器をあやつるかできるのだ。ここでいっしょにアーティストとして暮らすのもいいな。ほのかは、ふっと思った。

「これから海に行かないか」アルタが言いだした。数台のバイクに分乗し、一同、暗闇にくりだした。ほのかは美しいアルタの腰に手を回し、夜の闇をすごい速度でつっきった。ときどきジジを乗せたバイクに抜かれ、するとアルタはいっそうスピードをあげるのだ。このまま横転したら、死ぬかもしれないとほのかは思った。それなら、それでもいい。それも人生だ。海につき、海岸を歩くうちに夜明けが来た。バリとちがい、ジョグジャの海はきれいではない。灰色をおびた暗い蒼である。それでも足先だけ水に入れて、みんなではしゃいだ。

しばらくして、男たちは朝の礼拝に行ってくるといって出かけた。不良インドネシアンに見えたアルタも、そのときはすっかり敬虔なイスラム教徒だった。ほのかとジジは海を見ていた。「さっき事故死したら、軽率って、人にさんざんいわれたわね」ほのかが言った。「じゃなきゃ、アルタに売りとばされるとかしたら」 ふんとジジが笑った。「危険な思い出のひとつもない人生なんて、いったいどこが面白いのかしら」


23.電話占い 私は情報をさしあげるだけ

昔ジジと仲のよかったジプシー占いのリリカ婆さんが、日本で占い師をしてるそうです。「初めて出会ったのは、ドイツの森の中だったわ。モミの木の下にある小さな家で、リリカ婆さんに占ってもらったの。シャッシャッとタロットをシャッフルすると、あざやかな手つきで並べるのが、今も目に浮かぶ。婆さんの背後では、ペットのフクロウが目をぱちぱちしてた。ろうそくがゆらめいて、じゃこうの香が漂い、不思議な気分だったわ。とってもよく当たったのよ。あたしが王子さまに見初められるって言われて、本当だったの」「王子さまって、どこの」「ババリアのルードヴィヒ王子よ」「それっていつの話?」「1550年」

ジルルル…… その夜、ほのかは電話をしてみました。リリカ婆さんが生まれ変わって、日本で電話占いをしているというのです。半信半疑だけど、ジジが当たるというから。ともかく。「はい、こちら電話占いです」「もしもし、初めまして。私、春風ほのかといいますけど……」「初めまして。私、月乃と申します。どんなお悩みですか」明るい声。若い女性。この人が、リリカ婆さん? ともかく。「今、混乱してるんです。私、コピーライターだったんですけど、やめてしまいました。私はどんな仕事をしたらいいでしょうか」「何をしたらいいかは、あなたご自身が決めることです。私は情報をさしあげるだけ。それをどう使うかは、ご自分次第ですよ」「ええ」

「では、今からタロットを切ります。どうぞといいましたらストップをかけて下さいね」シャッシャッとタロットを切る音。トントンとそろえる音。「さあ、どうぞ」シャッシャッシャッシャッシャッ…… 「……ストップ」「はい。今、カードを2つに分けました。右がいいですか。それとも左?」「左」 またシャッフルの音。右、左を何度かくり返し。「さあ、カードが並びました」 沈黙。目に見えない電話線が、暗闇に細く、はかなく、銀色に光っているのが感じられる。「あなたは……。感受性が豊か。他の人が気づかないことにも気づいてしまう。表現する……才能がありますね。そういうお仕事だったんですよね。繊細。言い換えれば、少し神経質。……でも、ずぶといところもあります。さいきん、悲しいことがありましたか。そう……おっしゃるとおり、混乱してますね。妥協できない人。どうでもいいことは、どうでもいいんだけど」

「当たってます」ほのかは月乃を信じ始めていました。「そう。人づきあいは、そんなに上手じゃない。表現者として……徹底した方が。クライアントのある仕事でしょ。前なさったのは」「そうです」「それは、あなたにはきついかも……」「あたし……そのとおりだわ」「もっと自信をもって。したいことをしては? それはきっと、うまくいきますよ」「ありがとうございます」「もうひとこと、いいですか」「はい」「だれかのことを思っていますね。とても強く。その人とは、10年後にぐうぜん出会うでしょう。それは、モミの木の下です」

電話を切って、ずいぶんたちました。ほのかはまだ呆然としています。あの人と会えるのは、10年先。そのとき、何を思うのだろうか。私は、彼は、何をしてるのだろうか。そして、どんな話をするのだろう。それとも、何も言わず、すれちがうだけ? ほのかは決意しました。そのときの自分は、100%自分らしい、自分のことばと自分の職業と自分の生き方を持ったほのかでいたい。電話占いは、コンピュータの森の奥にポツンと建てられた、今どきの魔女たちの不思議のお城なのでしょうか。暗闇にじっと目をこらすと、何千本、何万本もの、細く、透明な、銀色の電話線が、複雑に錯綜し、はりめぐらされているのを、感じることができる……。


24.美人になるテキスト シャム猫のトンシャをお手本に

シャム猫のトンシャは、ダイエットもメイクもしてないのに、チャーミング。そのひとつはしぐさです。「ニャーン」なんて甘えたり、「くしょん」なんてくしゃみしたり、しっぽでとんとん遊んだり。いっしょに眠ると、なでがたのうしろすがたが、かわいくてたまらない。足の裏がやわらかくて、さわるととろけそう。ときどきギャッギャッてかわいくない猫になることもあるけど。美人になりたかったら、動物の表情がテキスト。嘘をついて、知らん顔したいときは、ラッコのように空を見ましょう。ジジが持ってる『すてきな妖精学』の本をのぞいたら、こんな文章がありました。そして、落書きも。 猫と同じだけ愛して。 猫以上とは言わないから。


25.古い時計 金色の小さなロシア製。文字盤が宝石みたいに光る

ほのかの手もとにアンティークの腕時計がひとつあります。ベルトもフレームも金色の小さなロシア製。友達がモスクワに半年間、出張していたときのおみやげです。性能はカメラのさくらや「ウォッチ館」で売ってるどれにも勝てないけれど、エメラルドグリーンの文字盤が宝石みたいに光ってきれい。時計といっても装飾品に近いのです。仕事や旅行には向きません。ついリューズを巻き忘れて、遅刻してしまうかもしれないもの。逆に、時計のせいにしたいときにアンティークは役立つ。

ぼんやりと海の見えるカフェにすわって、波を見つめている少女。ほのかの年下のいとこです。向かい側には、ほお杖をついて、やっぱり何も言わない少年。やがて、夕焼けが空を染めはじめ、そこにかすかな薄墨が広がっていく。気がつくと星がまたたいている。少年がやっとのことでいう。「もう帰らなくちゃいけないんじゃないのか」少女の母が心配症なのを少年はよく知っていたから。少女は、ゆっくりと腕時計を見ます。ほのかから借りたロシア製のエメラルドグリーン。そして、まばたきもせずに言うの。「大丈夫。まだ3時半だもの」

暗闇の中で、ほのかが目をさましました。「どこ行くの」ジジが眠い目をこすりながら、くもの糸製のハンモックから顔を出しました。ほのかは着がえをすませ、いつもの時計を手に巻いているところでした。「公園に出かけるわ。夜明けを見たいの」「ほのかったら」ジジがつぶやきました。「あの遅れてばっかりいる時計をはめてから、逆に時間に敏感になったみたい」 公園では、夜がアクアマリンのすきとおるブルーに色を変え、夜明けの序曲を迎えてました。ほのかは今、全身で実感しています。私たちは巨大な時計の上に住んでいる。世界一古く、とてつもなく正確な、地球という名の掘り出し物の上に。


妖精のレッスン(中)へ続く


本ページには岩田裕子著『妖精のレッスン―じぶんを見つける50のレシピ』の文章(1~25)を掲載。