09 ルードヴィヒ

シネマの宝石学
―洗練された大人のおとぎ話09

Ludwig 1973 Trailer Luchino Visconti(動画)

王冠の見る夢

地獄を見てしまった男。それが、ルードヴィヒ2世なのである。それはまた、この世ともあの世ともつかぬ煌びやかな夢の世界。ローエングリンやタンホイザーが生き生きと住む、絢爛豪華な地獄なのだ。彼の生涯を映画化したルキノ・ヴィスコンティもまた、世にも豪奢な地獄を生きてきた男である。ルードヴィヒを理解し、その人生を、その精神を、神業ともいえる完璧さで、現出できたのは、自身も大貴族であるヴィスコンティ以外にありえない。まさに奇跡の出会いといえるのではないか。

生まれながらにして、最高の権力を手にし、人々にかしずかれ、だからこそ孤独にさいなまれた生涯。彼が信じられたのは、美であり、藝術、それのみだったルードヴィヒ。映画は史実を丹念に描写している。1864年、バイエルン王として即位した18歳のルードヴィヒ2世は、輝くばかりに美しかった。だれもが若い王に夢中になり、本人も司祭の教えを守り、理想的な君主になろうと、決意に燃えていた。しかし、どこで間違ったのか。彼は、少しずつ、すこーしずつ常軌を逸していく。

はじめのきっかけは、王憧れの作曲家ワグナーである。王となり、最初の命令が行方不明のワグナーを探し出すことだった。「ニーベルングの指環」、「トリスタンとイゾルデ」など、神ともみまごう作品世界の創造者、天才作曲家ワグナー。しかしその素顔は、図々しい俗物に他ならなかった。不倫の関係から妻となったコジマの政治力、ワグナーの浪費癖に、世間しらずの王はすっかりいいように利用されてしまう。贅沢好きなワグナーの生活費。オペラの上演費用、きわめつけは、ワグナーのためだけに建設されたバイロイト祝祭劇場。彼のために、どれほど、国庫が散財されたことだろう。美貌の王の評判も地に落ちた。

もうひとり、ルードヴィヒをとりこにしたのは、いとこであり、ハプスブルグ家皇后エリザベート―最近、日本でも大人気な伝説の美貌の王妃―だった。おんな嫌いのルードヴィヒが唯一愛し、あこがれた女性である。ルードヴィヒと同じ、自分に正直で束縛をきらう魂をもっていた。孤独な王妃はルードヴィヒにだけ、苦しい胸のうちを明かし、ルードヴィヒは、その不幸にいっそう恋心を募らせた。冬の夜、ふたりが馬を走らせ、雪の林で会話する場面は、この地獄的な美しさに満ちた映画のなかで、唯一、のびやかで甘い幸せを感じさせるシーンとなっている。

エリザベートとのただ一度のキス。彼女への純愛に身を焦がすルードヴィヒに対し、エリザベートは親愛の情くらいにしか捉えておらず、その足で妹ソフィに会いに行き、ルードヴィヒと結婚するよう勧めるのだった。ソフィは美しく、しとやかで、なによりルードヴィヒを愛していた。しかし王は彼女が気に入らず、自分を妹に押し付けようとするエリザベートに、裏切られた思いを抱く。ソフィに何が欠けていたというのだろうか。欠けるものがあったとすれば、それはデモーニッシュな魂であろう。ルードヴィヒはエリザベートに自分と同じ、それを感じ、だれにもわかってもらえない孤独から、彼女とともに逃れられると感じたのだ。それに比べ、ソフィは、天使のように無垢な女性。ルードヴィヒには、それが退屈にしか感じられない。ソフィは、本当にやさしい心の持主で、後年、火事の際、人々を助けようとして、焼死したのである。

エリザベートは、ルードヴィヒにソフィと結婚しなさい、と命令する。現実を見なさい。子供ね。大人になりなさい、と。宮廷から逃れ、世界を旅して歩く放浪の王妃だが、ルードヴィヒよりははるかに世間を知っていた。もしもルードヴィヒがエリザベートと結婚できていたら彼の悲劇はなかったかもしれない。唯一の理解者エリザベートも、無政府主義者に暗殺されて最期を遂げる。

ソフィとの結婚を決めたルードヴィヒだが、その一方で、自分の理想とするお城作りに着手した。奇怪な美しさを誇るノイシュバンシュタイン、ヘレンキームゼー、リンダーホフの城々である。理想としているフランス王ルイ14世のベルサイユを念頭に作られたが、彼の城には、華やかな貴族達も着飾った愛妾もおらず、訪れる外国の大使もなかった。まさに孤独地獄の美しき城。ことにリンダーホフ城の地下にある洞窟は圧巻で、青い光のなか、人工の湖には、白鳥が放たれている。王が乗るのは、貝の形にかたどられ、金銀に塗られた、月のしずくのような小船だった。特殊な仕掛けで小船は水の上を自動的にすべっていく。(中世好みの王の城には、最新の機械が意外にも多く取り入れてられていた)

ついに、王はソフィとの結婚を破談にしてしまう。これを契機に、王は、現実世界からますます遠ざかっていった。そのとき国は、戦争やプロイセンとの統一問題でゆれていたが、ルードヴィヒは自分の世界にひきこもり、見ようともしない。一方で王は、美しい男たちに関心を寄せていく。湖水で泳ぐ従僕の裸体に興味を持ち、おきにいりの男を部屋に引き込み、美男の俳優を旅に連れ回し・・・。りりしかった王の風貌もかわっていった。すっかり太り、無精ひげをはやし、歯もぼろぼろに。そのすさんだ様子は、まさに地獄の盟主、閻魔大王を彷彿とさせる。華麗なる地獄の城に君臨する悲劇の閻魔大王。

やがて政府に王を廃位する動きが。王は、無視していた現実に復讐されたのだ。自由を奪われたルードヴィヒの、逃げ行く先は、ひとつしかなかったのだろうか。ある午後、医師と散歩に出かけたルードヴィヒは、行方不明となり、探索の結果、幻想的な湖で発見された。水死体として。なにがあったのだろうか・・・

この映画を撮ったとき、ヴィスコンティは66歳だった。病に冒され、車椅子に乗りながら、なんとしてもこの作品を仕上げるのだ、と精力をふりしぼったという。これはヴィスコンティの自伝的映画なのだという人もいる。ヴィスコンティ家は、8世紀までさかのぼれるというミラノの大貴族なのだ。一時は北イタリアのほとんどを領地としていたという。ミラノといえば、ドゥオモとミラノスカラ座だが、どちらもヴィスコンティ一族の建立だった。王族との姻戚関係も多く、ルードヴィヒのウィッテルバッハ家とも縁続きだと、ヴィスコンティ自身が語っている。彼は富裕な自分の生まれに疑問を感じていた。家出を繰り返し、コミュニストの一員だったこともあった。

初期の作品は、労働者階級を描くことが多かったが、次第に自分のルーツである王侯貴族の世界に移っていった。彼の作品に共通するのは、敗北感だという評論を読んだことがある。世俗的な成功とは、反対のほうにベクトルが向く主人公たち。かろうじて、現実と巧く折り合っている人も、現状維持なだけで、本当に価値を見出しているのは、自分だけの基準による満足感。ヴィスコンティもまた、ルードヴィヒと同じく、藝術に惹かれ、美に最大の価値を置いていた。凡庸なものが嫌い。また背徳の愛にとらえられていたともいわれる。

それにしてもこの作品「ルードヴィヒ」には、彼の中の貴族の血があってこそ描けたリアルな王の苦悩がある。その豪奢な調度、衣装、そして宝石にもまた、これ見よがしの安っぽさとは対極にある、日常的にある贅沢のさりげなさが感じられる何百年もの歴史をもつヴィスコンティ家の日常が、そこに透けて見えるのだ。

この作品には、当然、ふんだんに宝石が登場するが、しかし画面に溶け込んで、さりげない。エリザベートやソフィ、ルードヴィヒの母である王大后らが身につけるダイアモンドのイヤリングやネックレス、指輪、ブローチなど。また、ロミオを演じた美男の俳優ヨーゼフ・カインツに、ルードヴィヒが贈った大きなサファイアの指輪。王は、美しい従者やボーイたちにも宝石をえさのようにちらつかせ、思い通りにしていたのである。

しかし、なんといっても圧巻は、婚約中のソフィにバイエルン王妃のための宝石を見せるシーンである。青や赤の天鵞絨(ビロード)の上に広げられた金と白の輝き。おびただしい数のティアラ、ダイアモンドのパリュール、何連にも重なった真珠のネックレス。すばらしい宝石の数々が、ほんの数秒、流れるように映される。

そして王妃のための正王冠。黄金の鷲が胸はるような優美なフォルムに、ダイアモンドが銀河のごとくちりばめられている。この王冠こそ、バイエルン王国という宇宙なのだ。荘厳さの中に、中世から続く王国の誇りも重責も、すべてが透けて見える。鏡のまえに、ソフィを立たせ、正王冠をかぶせてみるルードヴィヒ。緊張した面持ちのソフィは、しかしちっとも幸せそうに見えない。二度とかぶることのない運命を予感でもしていたのだろうか。

岩田裕子

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