29 ドラキュラ

シネマの宝石学
―洗練された大人のおとぎ話29

Bram Stoker’s Dracula 1992 Trailer(動画)

宝石の魂をもったドラキュラ「ドラキュラとダイアモンドの涙」

秋の夜長、ゴシック・ホラーに身をゆだねながら、薫り高きホットウィスキーを楽しむとしたら、かなり上等な時間のすごし方といえるのではないだろうか。コーヒーやホットワインでないのは、この映画の主要な舞台が、英国ロンドンだから。しかも、原作者のブラム・ストーカーは、アイリッシュウィスキーの本場、アイルランドの生まれである。

序章 絶望

時は、15世紀。トランシルヴァニア―現在はルーマニアの西部にあたる山に囲まれた緑豊かな地域―にそびえる美々しいお城に、思慮深く、たくましき城主が住んでいた。その名は、ヴラドⅣ世。武勇の誉れ高き彼は、神のため、異教の徒であるオスマン帝国軍と戦い、数多くの敵兵を串刺しにしたことから、ヴラド・ツェペシェ(ヴラド串刺し公)と呼ばれ、恐れられていた。串刺しされた兵士たちが累々と荒野に並ぶ、この映像は、影絵のように印象的だ。戦いに勝ち、意気揚々と故国に戻ったそのとき、待っていたのは、最愛の妃、エリザベータの亡骸だった。夫の死を告げる、偽の手紙に衝撃を受け、自ら深い川に身を投げて死んだのだ。神父は告げる。自ら死んだものは、神の加護を受けることはできないと。ヴラドはエリザベータをこの世の何よりも愛していた。神と正義のために命がけで戦い、やっと勝ちを得た自分がなぜこんな目に・・この世を怨嗟するほどの深い嘆きが、王を、別次元の生き物に変えてしまう。死しても、この世を浮遊する、忌まわしき吸血鬼として。彼は、ドラキュラとなり、時空を超えて存在し続けることとなった。

四百年の時がたった。地獄よりも耐え難い絶望とともに。美女の生き血が彼の糧となる。襲われた美女は、手下の魔物となるのだ。彼女たちは、ドラキュラの花嫁とよばれ、そのあまりにも官能的な美しさで、男たちをとろかし、ひと時のおそろしい快楽と引き換えに、彼らの喉にくらいつくのだ。このまがまがしい美女のひとりを、「マレーネ」で一躍スターとなり、イタリアの宝石と呼ばれる美女、モニカ・ベルッチが演じている。異国風の衣装に、きらびやかなジュエリーをつけた彼女たちは、まさにハーレムの美女たちそのもの。ヴラドの運命を狂わせたオスマン帝国。その爛熟した快楽のイメージが、犠牲者たちをからめとるのだ。

二章 生贄

1897年、ドラキュラは、恋をする。妃エリザベータに生き写しの清楚な娘、ミナに出会ってしまったから。それは、トランシルヴァニアにある彼の城に仕事のためにやってきた若き弁理士ジョナサン・ハーカー(キアヌ・リーブス)の婚約者だった。ハーカーのもつミナの写真を見てしまったドラキュラは、彼女に会うため、ビクトリア朝真っ只中のロンドンへ、船荷となってやってくる。「何か邪悪なものが乗っている」船員たちは、突然の嵐に驚き、仲間がいなくなることに恐れおののき、ロンドン動物園の狼は、ご主人さまのやってくる気配に、檻をぬけだすのだった。夢遊病の癖があるミナの友人、貴族の娘でわがままなルーシーは、ドラキュラにとって、かっこうのご馳走だった。彼女は、ミナとは正反対。無邪気でセクシーな魅力に満ち、青年たちに次々と求婚されていた。しっかりもので、清楚なミナが、首まである青いドレスを着て、小さなイヤリングを揺らしているのに比べ、ルーシーは、胸が大きく開いた真っ赤なドレスに、ゴージャスなジュエリーをつけている。男性を誘惑せずにいられない、いわば、すきだらけのお嬢様、ルーシーにくらべ、ミナは慎み深く、理性を失わず、節度ある女性なのだ。ルーシーは、ビクトリア朝の女性にしては、性的に放埓な部分があり、紳士である男性たちをひきつけて離さない。貴族、テキサスのカウボーイ、医師の三人が、ルーシーに夢中なのだ。ルーシーという美しき生贄も、この物語の残酷美を、きわだたせている。ある夜中、ルーシーは、ドラキュラに引き寄せられるように庭へと向かい、そこで襲われてしまうのだ。周りの人たちの看病や輸血のかいもなく、やがて彼女は、失血死する。死の床で、ルーシーは親友、ミナにプレゼントをした。ミナが、誠実な恋人、ジョナサン・ハーカーと結婚したことを知り、苦しさに、あえぎながらも、ひとつの指輪を抜き取り、結婚のお祝いよといって、ミナにわたしたのだ。それは、大粒のダイアモンドをいくつか並べた、ひとめでつくりのよさがわかる、ゴージャスな指輪だった。この美しい指輪ともに、ドラキュラのターゲットがルーシーからミナへと移ったのである。ルーシーは、死しても、墓に眠ることができず、ドラキュラの花嫁として、闇をさまようことになる。かつての恋人たちは、変わり果てた美しい娘の心臓に杭をうち、退治せずにいられなかった。

三章 純愛

世紀を超えて生きる、邪悪な怪物ドラキュラ。しかし、その彼も、ミナに、手をだすことができない。若き日の颯爽とした自分に変身し、ヴラド伯爵と名乗って、彼女の前に現れ、心からの純愛を捧げるのだ。無防備なミナの、白い首にかみつきたくてしかたがなくても、必死でその本能をおさえようとする。自分と同じ闇の世界へひきこみたくなくて。次第にミナもドラキュラに惹かれていく。清楚な娘だったミナが、激しい情熱をおさえることができない。それは、彼女が王妃エリザベータの生まれ変わりだからだろうか。好青年でお似合いのジョナサンがいながら、伯爵を愛さずにはいられない。いつもは、ビクトリア朝に生きる娘らしく、髪をあげ、首まで隠れたドレスをきているのに、伯爵とあっているときは、胸の開いた深紅のドレスに、アールヌーボーらしいダイアモンドのネックレスをつけ、髪をダウンスタイルにして、はるか昔に生きた王妃エリザベータに生き写しとなる。結婚には、条件も必要だとすれば、この世のものではない、数々の人間たちを殺してきた邪悪なドラキュラほど、条件が最悪の相手はいないだろう。しかし、彼には、悪条件を凌駕するほどの愛があった。好青年キアヌ・リーブスにもどうすることもできない、この世もあの世も越えてしまった心からの愛、どぶねずみや、狼やこうもりを駆使する、邪悪な世界の王でありながら、ミナと会うときには、一途な愛を捧げる本物の恋人となる。純粋すぎたからこそ、神が許せず、怪物となってしまったのだ。その悲劇がここで浮き彫りになる。ヴラドの苦しみを思い、川に身を投げた王妃と自分を重ね合わせて涙するミナ。その涙は、幾粒かのダイアモンドに変わり、彼女の小さな手のひらで燦然と輝いていた。

四章 甘美な夢

恋のとりことなったドラキュラに、彼を退治しようとする一団が襲い掛かった。形而上学者ヴァン・ヘルシングをリーダーに、ジョナサン・ハーカー、ルーシーの求婚者だった貴族、医師、カウボーイの若者たちだ。戦いながら、本来の、異形の醜い怪物に戻ってしまうドラキュラ。長い耳、はげた頭、肉が腐りかけた骸骨のような顔の向こうに、こうもりのような、赤い小さな目が光っている。その醜い獣に、ミナは深い愛のキスをした。彼女の愛は、それほどに深かった。ドラキュラを退治するためには、最も愛するものが、その心臓に杭をうち、首を切るのが鉄則なのだ。世にもおぞましい怪物となった恋人。ミナは、深すぎるほどの愛をもって、心臓に杭をうちこむ。次の瞬間には、首を切り落とした。年ふりたドラキュラは、愛した人に、本当に愛され、その人に最後をみとられるという、この世で最高の幸せのなかで、微笑みながら、命を閉じた。彼は、永遠の闇の世界へ消えていったのだ。邪悪な存在ではあったけれど、純粋な愛の中で死んだこの瞬間のドラキュラの魂は、宝石のように輝いていたのではないだろうか。

ブラム・ストーカーがこの原作を書いたのは、ビクトリア朝。道徳がきびしく、誠実さがなによりも大事。普通の娘は性的なことは何も知らず、快楽はすべて、娼婦が引き受けていた時代だ。その闇の部分が、この物語に投影され、人々の人気を呼んだのではないだろうか。監督したコッポラは、この原作が大好きで、いつか映画化するのを夢にみていたという。わたし自身も何かをのろったり、妄執をいだいたり、放縦な欲望をもったとすれば、たとえ形は普通の人間だとしても、ドラキュラの心を持つことと同じなのかもしれない。そんなふうには誰でもなるものだろう。それもまた、人間という存在のもつ悲しみかもしれない。

五章 宝石

ドラキュラの残虐さ、邪悪さとうらはらの深い愛は、いってみれば、極上の宝石のもつ、危険な匂いと、幸せな陶酔の境地に、かなり共通する思いがする。宝石は、人間を守護してくれるというけれど、それは諸刃の剣。人間のパワーが、その宝石に対抗しうるほど強くなければ、たちまち不幸の淵につきおとされるかもしれないのだ。しかし、その不幸には、あまい蜜のにおいがする。甘美さに酔いしれ、理性も常識もとろけてしまった上での不幸は、幸せと背中合わせのようで、もしかすると、身の安全を願うだけの幸せに比べたら、こちらのほうがけた違いの幸せではないか、と、そんなふうにも、思えるのだ。絶世の美を誇る極上の宝石は、この世の善悪をこえた、究極の至福に似ているのではないだろうか。人間が掟を作る、ずっとずっと昔から、地底深くに生まれた宝石たちは、宇宙的な存在感で今日も、ぴっかりと輝いている。それと同じように、今も世界のどこかで、邪悪な外見に宝石のような魂をもったドラキュラが、密かに微笑んでいるかもしれないと思う。

岩田裕子

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著者よりひとこと

この映画は、封切りのとき、友達に誘われたのですが、こわそうだと、断ってしまい、それが悔やまれます。ホラーですから、こわいところもありますが、他のホラーに比べたら、こわさより、悲しさや美しさのほうが際立っている映画だと思います。日本人デザイナー、石岡瑛子氏が衣装を担当され、アカデミー賞を受賞されています。