妖精のレッスンーじぶんを見つける50のレシピ 26-39
26.瞑想 今すぐ宇宙旅行
銀の点線が、世界を占領してしまいました。別の言い方をすると、雨が降っているのです。ほのかは窓枠に肘をつき、銀色の冷たいナイフが、空から地上へ、いくつもいくつも投げつけられるのを眺めていました。シト シト シト シト…… ほのかの胸の中にも、同じナイフが冷たく残酷にきらめき、いくつもいくつも心につき刺さっているのです。顔だけ見てれば、そんなふうにはちっとも見えません。ですがジジは妖精なので、ほのかの心に手をあてることができました。「ブルルル……」ジジがふるえ出しました。「ほのか、重症よ。心の中が冷たすぎる。痛くてたまんないでしょ、これじゃ」「ずっと、こういうふうなの、ここんとこ」ほのかが面倒くさそうに答えました。「しょうがないわ。ココアをのんでも、心の中まではあたたまらないし、胸の傷は、マーキュロ塗るわけにもいかないし」
「ジジ先生に相談すれば、治るのに」「本当?」ほのかは疑わしげです。「瞑想してみ。インドの聖者が広めた方法があるの。試してみない?」 深く、深く、自分の中にもぐっていく。深く……井戸をまっさかさまに落ちていくよう。『不思議の国のアリス』も、こんな気分だったのだろうか。あ、こんどは海の底。黄金のイルカが漂っている。あたしが、イルカなんだわ。気持ちいい。もっと深く、もぐりたい。ヒトデになって、原生動物になって、深く、宇宙の底まで。ほのかは椅子に腰かけ、目をとじて、深い呼吸をしていました。あまりに深い呼吸なので、ときおり息がとまります。苦しくなると少しだけ息をして、もっと深く深くもぐっていきます。
気持ちいい。ただ、気持ちいいわ。心が落ちつく。ここが私の、本当の居場所なのかしら。ほのかは心でマントラ(呪文)をとなえました。何も考えないで――と瞑想の先生が教えてくれた。そんなのむずかしいと思ったけれど、ほのかだけのための呪文を与えられたので、何も考えないですむ……。静か。あ、眠ってたのかしら。ほのかの中の、深く沈潜した意識が、のぼってくるのがわかります。いつもの考えたり、おしゃべりしたりする場所へ、階段をのぼるように戻ってきます。パッと目をあけると――。すっきり。生まれ変わったみたい。
「お帰んなさい。ほのか」そのときジジが声をかけました。「あなた、今、宇宙を浮遊してたのよ」「宇宙ですって?」「そう。こうやっておしゃべりしてるのが、顕在意識。夢の中や、無意識の自分が潜在意識。もっと深いところは宇宙とつながってる」「ね、ジジ、あたしの心の中、さわってみて」「キャハハハ。ホカロンみたいにホカホカ」ジジが喜んで飛び回りました。窓の外を見ると、雨あがりの窓には、半円の美しい虹が浮かびあがっています。「おなかすいた。ほのか、おいしいベトナム料理でも食べにいかない?」ジジが窓から飛び出しました。ほのかも立ちあがりながら、思いました。「いつでもできる宇宙旅行。悪くないな」
27.こども レレレは自分でことばをつくる天才
ほのかの姪、2歳のレレレが、飛んでるジジを見つけたのです。レレレはびっくりして、ジジは面白がって、おでこをくっつけあうと、にらめっこしました。といっても、今ジジの身長は、レレレの顔くらいしかありません。「ちょうちょ」やがてレレレがいいました。「ちがうわよ」ジジが空中で腕組みしました。「ちゅんちゅん」レレレがいいました。「ちがうったら」ジジがレレレの頬をつっつき、レレレがジジをつかまえようとして、ジジがひょいと逃げ、それから追いかけっこ。レレレは、大喜び。突然、レレレが立ちどまり、「ビビ、見る」と宣言しました。「ビビですって?」とジジ。ほのかはテレビをONしたのです。「テレビとビデオがビビ。レレレは、自分でことばをつくる天才なの」
めがねが、メメ。輪ゴムが、ビヨーン。時計は、チッタチッタ。ピアノは、ポンポン。パジャマはジャマジャマ。あたしはレレ語って呼んでるの。「妖精語だわ、それって」ジジはつぶやき、レレレの背中に話しかけました。「トメオキシル、パラリパリ」テレビに夢中だったレレレがキロッとジジをふり返りました。幼い顔が、今は大人のようにみえます。眉をキリリとよせて、なにかを思い出しているふうでした。「トメオキシ、ビビ。ハルマジスリ、チッタチッタ、ロロロロン」これがレレレの返事でした。ほのかには何が何だかわかりません。ときおりレレ語が聞きとれるだけ。そのうちレレレは返事をしなくなりました。そしてコテンと横になると、すやすや眠ってしまいました。
「彼女、生まれるまえは妖精だったそうよ」とジジがささやきます。そんなバカな…… 「妖精語が少し記憶に残ってたの。踊り子と初めてテレビを見たとき、うれしかった。イルカに時計をプレゼントして喜ばれたと言ってたわ」「イルカ? 踊り子?」「彼女、30年くらい前、インドネシアに住んでた妖精なの。ときどきいるのよ。人間にあこがれて、生まれ変わる妖精が」眠っているレレレを見ると、すっかり2歳児の、おさない顔にもどっていました。お母さんが迎えにきました。「おねえちゃんとあそんだの」レレレがお母さんに報告しました。「どんなおねえちゃん?」「ちょうちょ」「よかったわね」そしてレレレはお母さんに抱っこされ、きげんよく帰っていきました。
28.妖精詩集 靴は遊び好き
乾ききったアスファルトに霧がふる。 靴たちはドアをけやぶり、舗道で踊るの。 タンゴもジルバも、持ち主よりステップはたしか。 嘘と思うなら、夜明けまで見張ってて。 霧雨は……こおった月のしずく。
29.小雨の国の出来事 空は無邪気なアイスブルー
ほのかの友達でフランス語の通訳をしているミスミ・アリが、さっそうと街を歩いていた。今日は重要な会議が2つ重なっている。仕事の手順を頭の中で組み立てながら、カルティエの腕時計をのぞき、時間に遅れぬようハイヒールの足を早めた。そのとき、空からしずくが落ちてきた。ミスミ・アリのばら色のくちびるを、かすめて流れた。次のが、ポタリと重く頭のてっぺんに当たった。続いてポト・ポト・ポトと少し早く。ポツポツポツとリズムを刻んで。あとはめちゃくちゃ。ポポピポピッがトタトタトタに変化し、気がつくと、ZAAZAA。ZZZAAZZZAAZZZZZAA。
街全体が、青く透明な海の底に沈んでいく。逃げまどう人の群が魚たちのようだ。風に揺れる街路樹は、海草ほどに頼りない。渋滞中の車の列がサンゴになってうずくまる。アリはずぶぬれになりながら、呆然と立ちすくんでいた。雨の音しか聞こえなかった。何かが狂っていく。どこかがほんの少し、ずれる。雨は、いつものアリを裏返しにしてしまう。だって、空中に水の粒が浮かんでるのよ。ふつうでいられるわけがない。小雨の国のアリ。
2年前、あの街の交差点にも雨が降っていた。彼の切れ長の目のふちが、ほーっと赤くなった。涙がホロッとこぼれおち、ふりそめたばかりの水滴と混じりあった。そして、また瞳の中に雨がたまった。きれい……。アリは自分がずぶぬれなのに気づかなかった。ただ水滴に打たれる痛みが、体中をまひさせてくれるのを、ここちよいと感じただけだった。「もう、行かなくちゃいけない」と彼が言った。なつかしい指先が、アリの目もとをぬぐったので、はじめて泣いていることに気づいた。その指先をつかまえようとして、アリはやめた。そして、彼はもとの暮らしに戻っていった。
あ、たいへん。今のアリがあわてた。すぐに取りかえそう。彼がどんなに大切か、あのときちっともわかってなかった。いったい2年もの間、何をぼんやりしてたのだろうか。アリは泳いだ。なまり色した重く冷たい水のカーテンを、体で必死にかきわけた。鋼鉄製のさんごのすき間をすいすい抜けた。カラフルな六角形のカラを手にした、はまぐりもあさりもはね飛ばした。あの人の街へと向かって走った。凍てついた水のナイフが、体をズタズタにひきさいた。透明な血がながれていく。狂気が息をつづかせる。雷鳴のとどろきに驚いて、あやうく転びそうになりながら……駆け抜ける。
そのとき、ふっと雨がやんだ。空ぽっかり、ピカリと現実。街から海がひいていく。魚も貝もヒト類に戻る。海草が街路樹へ姿をかえる。さんごであった車たちは、いらだたしげにのろのろ動く。アリは立ちどまった。見あげると、空は無邪気なアイスブルーである。7色の虹が淡く虚しく浮かびあがっている。ミスミ・アリは、しばらくじっと立っていた。そして深呼吸をひとつすると、ロエベのバッグからハンカチを出して、髪と顔と服を軽くふいた。そして通訳をしているミスミ・アリはカルティエの腕時計をのぞき、「大変だわ」とつぶやくと、カツカツとハイヒールをひびかせ、仕事先へといそいだ。
30.アーユルヴェーダ 本当の自分なんてどこかにいるの?
「本当の自分」なんて、どこかにいるのだろうか。いるとしても、それを見つけることなどできるのだろうか。この本には、できると書いてある。図書館で借りた赤い表紙の本『アーユルヴェーダ』。サンスクリット語で「生命の科学」という意味だとか。そうだとすると、今、ここでソファに寝ころび、本を読んでいるほのかは、フェイクのほのかとでもいうのだろうか。そんなこと、あるの? 「アーユルヴェーダ」とは、5000年の昔からインドに伝わる医学だが、その理論は最新の量子物理学と共通しているらしい。
この本によれば、ひとは生まれつき、自分固有のドーシャというものを持っている。これが本当の自分で、ヴァータ・ピッタ・カパという3つの体質、さらにはその混合タイプの人がいる。3つのドーシャには、それぞれこんな特徴があるという。ヴァータは、いわば風と空なのだ。軽さと動きを感じさせる。見た目は細みで乾燥肌。性格は明るく、変化が好きで心配症。行動はす早く、熱中しやすい。ピッタは、火と水である。熱さと鋭さを感じさせる。中肉中背、行動力があり、リーダー・タイプ。切れ味がよく、イライラしやすい。カパは、地と水だ。重さと安定性を感じさせる。大柄、ほりが深い、体力がある。おだやかで愛情深い。行動はゆっくりとしている。
ほのかは自分を知りたくなった。気がつくと、見知らぬ洋館の前にいた。ここは診療所で、医師は親しみ深い瞳のインド人男性だった。彼はすわりごこちのよい椅子を勧めると、ほのかの左手をとり、脈診をした。アーユルヴェーダは、体調をすべて脈診で見るという。男性は右手。脈のはね方で、判断するのだそうだ。ほのかはヴァータが本当の自分だといわれた。そうじゃないか、と思ったとおりだ。変化するのが好き。音楽はサンバ系の軽快なのが好み。映画だと、「青いパパイアの香り」や「キカ」または60年代の邦画のように感覚的で、さらっとしたのが気にいっている。
ほのかは、オイルマッサージを受けることにした。数日間かかるパンチャカルマには及ばないが、本当の自分近くまで戻れるということだ。自分にあった特製のゴマ油で、全身マッサージされた。体のすみずみ、筋肉のかげや骨のすきまにまでこびりついていた一切の疲れという疲れが、すべて解放されていった。子どものころの遊び疲れにも似た、健康的な疲労感。あまりの心地よさに、ほのかはトロトロ眠ってしまった。
すっかり終えて外に出ると、足もとがフラフラした。しかしほのかはこの瞬間、自分がまっさらなのに気づいた。その生まれたてのような自分は、胸の一部に傷を受けていた。ケント。彼のことでは、本当に傷ついたんだわ。そう思った。だからといってどうというわけではなく、それにただ気づいていた。甘ずっぱいようなやさしい痛みだった。そのとき、涼しい風が、ほのかを家まで運んでくれた。さやさやと軽やかなヴァータの風だった。
31.芸者と妖精 人間のふりして暮らしてる
ジジ「人間は妖精のこと、可愛くって、繊細で、お菓子みたいに甘ったるい生き物だと思ってるのね」 ほのか「メルヘンチックとか言っちゃってね。本物のメルヘンは、底に毒薬をたっぷり秘めて、だからこそ美しいというのに」 ジジ「あたしたちの先祖は、堕天使よ。フォールン・エンジェル。悪いことばっかりして神さまに天国から追い出されたの。かわいいわけないじゃない」 ほのか「死人の霊やほろぼされた民族、死んだ赤ちゃんも妖精になったというわ。仕事で調べたんだけど」 ジジ「たまには、とっても恐ろしいのもいる。ジジちゃんみたいなヨイコは貴重よ」 ほのか「はい、はい。わがままなのは、自分に正直ってことだものね」 ジジ「したいことはしちゃう。できないことはしない。現実的なの」
ほのか「フツーはどこに住んでるの?」 ジジ「森の奥、河辺、海の底、岩陰、野原のくぼみ、そしてあなたの隣り」 ほのか「それはジジだけでしょう」 ジジ「あたしだけじゃないわ。人間のふりして暮らしてるのは。みんな気がつかないだけよ」 ほのか「じゃ、あっちこっちにいるっていうの?」 ジジ「そうよ。映画俳優になったのや、力の強いのはプロレスラーやおすもうさん、料理上手はシェフや板前。ビジネスマンになったのもいるけど、あの子はまったく変わりものだったわ」 ほのか「おすもうさんが妖精なんて」 ジジ「ときどきすごく陽気でジョークがうまい人いるじゃない。あれがそうよ」 ほのか「そういえば、おすもうさんて話してみると、明るい人が多い」
ジジ「あたしの親友は、今、新橋で芸者やってるの。人間でいえば、もう90歳くらいだけど『おねえさん』って呼ばれて、楽しそうだわ」 ほのか「それって、三味線の上手な喜美嘉ねえさん?」 ジジ「知ってるの?」 ほのか「接待で料亭に行ったことがあるの。70歳から90歳くらいの名妓が4人くらい呼ばれてたわ。さばさばしてて、はなやぎがあった。はじめて会ったのにくつろげるの。女らしい人や男っぽい人、貫禄ある人とか、みんな個性的だったわ」 ジジ「その女らしいのが、カリカ・ベルよ。ティンカー・ベルのまたいとこに当たるの」 ほのか「喜美嘉ねえさんが、カリカ・ベル……」
ジジ「でもいちばん多いのは、芸術家になってる妖精よ。妖精は協調性ないからね。イマジネーションはぶっとんでるし」 ほのか「たとえば、誰よ」 ジジ「ほら、こわいくらい残酷な画家いたじゃない。ものすごい才能の持ち主で」 ほのか「まさか。あの人? 愛人の前で他の愛人とわざと仲よくして、ヒステリー起こすの楽しんだり。愛人同志がとっくみあいのケンカするのを笑ってみてたり。結婚してる女の人にプロポーズして、彼女が離婚したとたん、ほかの女性と結婚した人?」 ジジ「恋人を泣かせて、錯乱させて、それを全部、傑作として世に残してるあの画家よ」 ほのか「ピカソ!」 ジジ「彼は妖精王だったわ」
32.ワニの絵本 はるばるとアフリカの奥地から
はるばると、アフリカの奥地から、海を越えて、あこがれのパリにたどりついたワニがいました。わくわく胸おどらせたワニが見たのは、きれいな店に飾られた、クロッコダイルの靴とバッグ!! ワニの目にナミダ。泣きながら、美しい売り子さんを食べてしまったの。床にポトンと売り子さんの帽子。ピンクの花が4つついてる……。
アフリカで、ワニが泳いでいます。ピンクの花の麦わら帽子をかぶって。キ・モ・チ・ヨ・サ・ソ・ウ・ダ・ワ! 『クロッコダイル・クロッコダイル』というドイツ製の絵本です。「このワニ、大好き」絵本をとじて、ほのかがひとりごとを言いました。「気がやさしくて、エゴイスティック。だって“人類”もこんなふうにできてる」 あら、ジジのいいそうなこと。影響されたのかしら。ほのかはもう一度、絵本をパラパラめくってみました。「やっぱりあたし、このワニ好きだわ」 それから手近の麦わら帽子を顔にのせ、すやすや眠ってしまいました。
33.夜がきらい やりきれないほどの深い闇
通訳の仕事を終えたミスミ・アリが劇場へ行くと、隣席に友達はいなかった。係員が「今日は行けなくなった」というメッセージを伝えてくれた。文楽を見たあと、九段下へ向かう道は、やりきれないほどの深い闇だった。電灯がハッパをきちがいのように照らしていた。明るいけれど、少しも暖かくない光。冷たく、ヒステリカルに、空気を引き裂いている。中学生が数人、自転車にのって、靖国神社の闇に消えた。ひとり、ふたりと透明な黒い海におぼれていく。最後の自転車がのみこまれるとき、タイヤの向こうに笑い声が響いた。
そう、あの頃は、夜が輝かしかった。信号の赤や青、イルミネーションに胸が踊った。まだ夢の中に住んでいたのだ。闇の向こうに黒猫の経営する遊園地さえ見ていた。ジェットコースターが空へ飛び出し、月の軌道を一周して、うさぎの安眠を妨害するのだ。大人になりかけたころ、夜は少しずつ姿をかえた。秘密を含んで、甘くきらめき、禁断の世界を豪奢なスクリーンに映してみせた。ベルベットの肌ざわり。オニキスが沈殿していく、きらめき。そして時がたち、夜は無惨な抜けがらとなった。華麗に見えたのは幻覚。スイッチひとつで消えてしまう。虚しいカーニバル。
靖国神社の鳥居がそびえる。鋼鉄製の天までつきさす巨大な二本柱。異次元への扉だろうか。子どもでなければ、無事には返してくれない。通りぬけたとたん、頭の上にくずれおちてきそうな気がする。そう思ったとき、狛犬の「吽(うん)」がこちらをにらんだ。錯覚だろうか。生臭いあたたかさが気味悪く、肌をとらえた。「阿(あ)」の吐く息ではないか。アリはそちらを見ないことにした。背中がうすくそげたような思いをしながら、そ知らぬ顔で地下鉄へともぐった。
そこは、すみずみまで明るく、清潔な人工空間だ。それなのに今は人影もない。行き場を失った過剰な明るさが、アリひとりへと襲いかかってくる。夜と清潔は、桂離宮でピザを食べるほどにアンバランスだ。どこまでも白い、直線だけで構成された世界に、ミスミ・アリのハイヒールの音だけが、カツカツと傷をつけていた。無人の車両に乗りこむと、ひそひそ声がする。風だろうか。暗い窓には、青白いアリ自身の顔がひとつだけ、浮かんでる。そして、ふわっと笑った。アリは笑ってないのに。スリも痴漢もどこへ消えたの。
駅から飛び出すと、見慣れた町だ。ところが、夜はここまで浸食していた。寿司屋のあかりが、悲鳴のようにまたたいている。闇と勝負しているのか。でも、勝ち目はない。「暗いのね」と思わず口にし、はっとした。だれもいないのに。だけどそのとき「ああ」と男の声がした。その声の主が、実際には見知らぬ遠い町にいることにぞっとしながら、それでもひとりよりマシ、と男の腕にふれて歩いた。指先がほんのりあたたまった。と、闇から女のかなきり声が聞こえて、男は一瞬、顔をゆがませ、姿を消した。静寂。誰かが追ってくる。気のせいだろうか。ふりかえる勇気はない。試しに速度をおとすと、気配もまた歩みをゆるめた。
マンションはすぐそこだ。エレベーターで10階まで一気にのぼった。カシャカシャと鍵をあけた。靴をぬぐのももどかしく、部屋にとびこんだ。すべりこみセーフ……ではなかった。部屋は夜に先回りされていた。すみずみまで、闇の魔物が、おしあいへしあいしていた。出しっぱなしのジャケットの上、冷蔵庫のかげ、忘れもののライターのあたり、テレビの黒い画面の中にも。あわてて照明をつけると、追いやられた夜魔の群れが、あらゆるへこみに濃くたまり、暗い顔してこちらをじっとねらっている。廊下からコツコツと不気味な足音がする。規則正しく。電話が鳴り響く。夜魔がいやな顔して、こちらをにらみつける。日がのぼるまで、あと数時間、ヒザをかかえてふるえましょうか。
34.イルカの海 光線と波とルンバルンバ
朝7時。まだ寝ているジジを残し、ほのかは船着き場へと向かった。日中は波が高くなってしまうからだ。ここは、チャンディ・ダサ。バリ島の中心部からクルマで4時間ほど来た海辺のリゾートである。断崖絶壁なので、サヌールやヌサドゥアあたりのような海水浴客はいない。泳ぎたければ、船頭つきのボートを借りてさんご礁のあるところまで潜りにゆくのだ。カラフルなボートが並んでいる。赤い小舟の前で、男の子が手をふった。浅黒くまつげの長い、カトゥという18歳の少年だ。すぐ目をふせるところが、まだ子どもっぽさを感じさせる。
バリのボートは、平行をとるためか左右に長い棒をともなっている。曲線の木でボートと棒をつないでいるのが、翼を広げて水に浮かぶ鳥のようだ。左右の棒でバランスがとれ、多少の波では揺れることがない。果てしなきエメラルドグリーンの海を、舟はなめらかに進んでいった。とある小島をすりぬけたとき、ほのかはギョッとした。ひょろりと1本だけのびた枯れ木のてっぺんに、大きな白い鳥がとまっている。鷲だろうか。「ガルーダ」とカトゥが教えてくれた。猛禽類。伝説の神鳥でもある。ヒンドゥーの神を乗せて飛ぶ。インドネシアを守護するともいわれる。白きガルーダは王者のように胸をそらせ、あたりを静かに見渡していた。
海が青みをましたあたりでカトゥが舟をとめた。覗きこむと、さんご礁が広がっている。フィンをつけるのももどかしく、飛びこんだ。限りなく透明なエメラルドグリーン。あとから飛びこんだカトゥが深く深くもぐっていく。ペンギンのように自由自在だ。青い魚の群がわっとわき出て、ほのかを囲み、そして消えた。木の葉のような黄色い魚に、足をつっつかれ、痛い。カトゥが指さした先に、大きな海亀がゆうらゆうらと泳いでいた。おだやかな海に、光線がたわむれるのを見ている。ココナッツ・ブレックファスト。椰子の実のジュースは生あたたかいが、かわいたのどにはおいしい。カトゥがもうひとつの椰子の実を割った。殻に貼りついた白いプリプリをはがして食べる。脂肪たっぷりのお菓子のようだ。
そのとき、かなたでイルカが3頭、弧を描いて跳んだ。「ルンバルンバ」とカトゥがつぶやいた。この海と――ほのかは水にふれた――続いている同じ海を野生のイルカが泳いでいる。ほのかは戦慄した。「イルカは毎朝、見るんだ」カトゥが言った。ここはイルカの海。「追いかけて」ほのかは頼んだ。ボートは波を越えていった。そのあたりへ来たけれど、イルカはもう近くにいない。あきらめて引き返そうとしたとき、またはるかかなたで、イルカが3頭、弧を描いた。光を浴びて、カラダがきらきら輝いていた。神々しくも、おそろしくも見えた。「追いかけて」ほのかは、また叫んでいた。ゆうらりと舟が進んだ。
35.アドラー心理学 「したい」と「したくない」
図書館で借りた青い表紙の本は、“アドラー心理学”というタイトルだった。アルフレッド・アドラー。1870年オーストリア生まれの精神科医。フロイトと訣別し、自分の心理学を作りあげたという。この心理学の特徴は、ほのかには明るくて現実的というふうに感じとれた。アドラーは、自分の無意識を信じなさい、と言っている。「したい」とか「したくない」とか強く感じたことは、その人にとって正しい。必要なことなのだ。この本には無意識は「賢い馬のように信頼できる」と書いてある。乗り手が居眠りしていても、馬は目的地にちゃんと運んでくれるのだ。無意識の自分を信じていいのなら――悩む必要はなくなる。
これって、とっても明るくなれるじゃない。ほのかは広告会社に在籍中コピーを書けなくなったときのことを思い出した。「書かなくちゃ」といくら自分を励ましても、一行の文句も浮かばず、逃げだしたいばかりだった。これは自分がコピーライターとして失格であることを意味する。あの胸かきむしる思いは二度と経験したくない。でも、と今のほのかは思う。あれは自分の中に潜む「馬」が、この仕事はしたくないと拒否していたのかもしれない。頭では、このまま会社にいたいと思っていたけれど、ほのかの「馬」は、やめたほうが、自分らしくなれることを、乗り手である表面的なほのか以上に知っていたのではないだろうか。
それは正しかった。今、ほのかは無職だけれど、「やめてよかった」と心から思っている。自分の仕事の方向を変えるチャンスになったからだ。アドラー心理学が現実的というのは、代替案という考え方に表れている。たとえばAがBに「時間を守れ」と怒ったとする。でもBはやはり遅れてくる。遅れるのはBの無意識にとって、必要なことだからだ。言っても事態は変わらず、ケンカになるだけなら、Aは代替案を考えたほうがいい。待ち合わせの時聞を30分早めに言っとく。待ってる間、つま先立ちして足を細くする、etc…… 他にもいろいろ思いつくだろう。
そうしてAが態度を変えると、ふしぎにBも遅れなくなることがあるそうだ。遅れる自分を許してもらったことで、Bの中の「馬」はなんらかの目的を達成したのである。「してもムダなことはしない」これはかなり現実的な生き方である。そういえば、ジジも同じこと言ってたっけ。また自分の考え方の癖を知り、その癖の明るい面を見るようにとも書いてある。ほのかの癖は、少し慎重なところのようだ。慎重なのは悪いわけでない。言いかえれば、自分の人生に責任をとろうとしているということだ。誰かが何とかしてくれると思ったら、慎重になる必要はない。ほのかは、また自分という名の書物を1ページめくることができた。
36.1%の狂気 荒涼と果てしない、目のくらむほど美しい銀河
なにせうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ ――閑吟集
とうとうとたゆたう日常生活の向こう側に巨大な滝がゴオゴオと音をたてている。その先をのぞきこんだら、荒涼と果てしない、だけど目のくらむほど美しい銀河。一度落ちたら、もとの平和な暮らしには、もう戻れない。人間を愛して罰を受けた雪女のように、未来永劫、その銀河をさまよわねばならない。狂気の世界。誰も近づきたがらない。それなのに、狂気にはまりこんでしまう人がいる。
彼らは、凡人には及びもつかないほど、勇気のある人たちなのだろうか。そうではない気がする。ふつうよりは少し退屈ぎらいの誰かが「あそこには何かあるのだ」と、そんな気がしてひきよせられる。いざというとき逃げればいいのだ。もう少しそばによっても平気だ、と近づく。もう少し、平気。大丈夫。あと1歩だけ。そんなふうに、少しずつ足を踏みすすめるうちに、気がついたら、もう逃げられない。足がぬけなくなっている。そんなものではないだろうか。
お三輪という町娘がいた。歌舞伎「妹背山婦女庭訓」の登場人物である。裏切った恋人の求女をたずねてさまよい、悪の本拠地に足ふみ入れる。明るくて可愛い、ごく普通の小娘だったのに。恋に盲(めし)いて狂ってしまう。そして政争にまきこまれ、殺される。あっけなく。嫉妬にかられた、悪鬼の形相のままに。
ポール・ゴーギャンという画家がいた。株式仲買人というまっとうな仕事を投げ捨て、画家になる決意をした。実業家と結婚し、安定した一生を送るつもりだった妻メットは怒った。ゴーギャンの手紙に返事も出さない。彼の絵が売れても、代金の一部さえ夫に送ろうとしない。ゴーギャンが天才だと認められたのは亡くなってからだ。生身の肉体を持っていた彼は、単なるすきっぱらをかかえて、異国でのたれ死に寸前の狂人だった。
お三輪やゴーギャンを不幸というのは、簡単だろう。だけど、そうだろうか。嵐のように凄絶な天国を、目のあたりにしていたのではないだろうか。彼らはその運命が面白かったのにちがいない。引き返せなかったとしても、引き返そうとした形跡さえ見られなかった。安全を代償に差し出した、指の先までオリジナルな一生。彼らは、世界にひとりの自分として生きた。
100%は勇気がないけど――ほのかは思った――せめて狂気の1%くらいは見つめてみたい。私だけの物語が、始まるだろう。どんななのかは・・・お楽しみのビックリ箱! 「100%にすれば」とジジが口をはさんだ。「今の世の中、安全なんて幻想よ。狂気こそが健康的にして現実的なの」 そんな気も・・・しないではない、世紀の変わり目。
37.恋の必勝法 むずかしいけど、ひとつある
「好きになった人と、絶対結ばれる方法って、あるの?」とほのかが聞きました。「そうね」ジジがめずらしくまじめな顔をしました。「とてもむずかしいけど、ひとつあるわ」 そして、こんなお話をしてくれたのです。あるところに、妖精を愛したお姫さまがいました。名前はジャネット。お相手は妖精騎士、灰色のタムリンです。優雅なものごし、とろけるようなやさしさ、冷酷、そしてセクシー。次々と娘たちに近づき、ものにしては捨てる筋金入りのプレーボーイでした。ジャネットもそんな犠牲者(?)のひとりでしたが、彼女はタムリンの冷たさにも、意外と人がよいことや育ちもちゃんとしていることなどにも気づき、本気で愛するようになりました。
「彼女は決して、“恋は盲目” タムリンさま、カッコイイわね。キャアキャアってタイプじゃなかったの。もっとクールで人を見る目もあったのね」とジジはつけ加えました。ジャネットは父王に妖精と結婚します、と宣言しました。父は大反対。彼女には、まじめで将来性もあり、しかも美男という求婚者が何人もいたのですから。でもジャネットの決心は固かったのです。「このお姫さま、すごいわ。この場合、親が反対するのは当然なのだから、説得されてしまいそうよね」とほのか。「彼女は自分の直観を信じてたのよ」
ジャネットはさっそく妖精の森に行ってタムリンに会い、気持ちを伝えました。彼は心を動かされ、自分はもともと人間だった。貴族の生まれだが、妖精女王に連れ去られたのだ、と告白します。「今夜はハロウィンだ。きみの助けがあれば、人間に戻れる」タムリンは、幻想的な灰色の瞳で王女を見つめ、その方法を説明しました。真夜中、この森を妖精の騎馬行列が通る。井戸のそばで待ち、自分を見つけたら、馬からひきずりおろし、どんなことがあっても抱きしめているように、と。ジャネットはそうすると誓いました。
ふくろうの鳴く不気味な夜の森。ジャネットはふるえながら待ち続けました。やがて、鈴の音が聞こえ、あたりに妖気がただよいました。妖精たちがやってきたのです。黒い馬、栗毛の馬、そして白い馬にタムリンをみつけると、ジャネットは力いっぱいひきずりおろしました。妖精女王のすさまじいかなきり声が響きました。ふと気づくと、腕の中にいるのは巨大なイモリでした。ジャネットは「うわっ」とほうり出そうとしましたが、タムリンのことばを思い出し、もう一度抱きしめました。
しばらくして、イモリは大蛇となり、ぬめぬめした胴体で、王女にまきつきました。こわさに半分意識を失ったジャネットは、ガオッといううなり声に正気に戻りました。腕の中で大きな熊が目を向いています。むくっと熊が変化し、今度はライオンになりました。大きくあけたライオンの口に、王女は首まで入ってしまいましたが、それでも気丈に耐えました。ライオンは熱い棒になりました。ジャネットは手を離しそうになりましたが、服にからまり、はずれませんでした。
そのときチッと妖精女王の舌うちが聞こえました。「これは彼女の魔法なのだ」ジャネットが気づいたとき、腕の中は燃えさかる石となりました。どこからか、「投げ込め」というタムリンの声がして、ジャネットは石を井戸に投げ込みました。あたりはしーんとしています。「どうしたのかしら」ジャネットが心配し始めたとき、井戸の端に白い手が見え、腕が、彼が、いとしいタムリンが、裸のまま井戸からはいあがってきたのです。彼はジャネットのものになりました。
「人間の男は、ライオンにはならないけど」とほのか。「同じことじゃない。やさしかったのが、不機嫌になったり、男らしかったのが、突然、子どもみたいに甘えたり、なまけものになったり、冷たくなったり」「こんなやな奴だったの? と思ってしまいそう」「相手は試してるのかもしれないわ。それに誰だって、本当は弱かったり、なまけものだったりするじゃない」ジジのことばはいつになく重みがあります。「許してあげるのね。この方法、ジジは、使ってみたことあるの?」「あたしはだれとも結ばれたくなんかないもの」いつものジジに戻っていました。「ジジはいつも自由でいたいの。やなとこ見せられたら、その瞬間にバイバイよ」
38.短歌のカタルシス お遊びなのよ、自由でかまわない
イラストレーターの冬丘雪子さんが、ほのかを短歌の会に誘ってくれました。「短歌はお遊びなのよ」冬丘さんが、晴れやかな笑顔で言いました。「仕事じゃないんだから、お勉強もいらないし、下手だってかまわないのよ。きっと自由になれると思うわ」 仕事じゃない。自由でかまわない。そのことばに、ほのかはひっかかりました。「今、いちばん気になることを素直に書いてしまえば。短歌って、カタルシスなの。気持ちいいわよ」 作ってみることにしました。自分の中でずっとわだかまっていた思い、忘れたくない瞬間、それらをなんとか5・7・5・7・7のリズムに乗せてしまう。
九年の恋を失い闇夜駆ける 猫に逃げられた気分これは何か
あの日が、瞬間冷凍されました。重大な出来事なのに、いざ起きてしまえば何でもないことのように思われる。人間の不思議。歌は活字になり、ほのかは全身で解放感を味わっていました。こうして、思いは整理され、歌誌にしまわれ、ほのかの本棚に並びました。
正月に着物で会いし我れのため替えの足袋買う彼なつかしき
ケントの心づかい、どこか粋だったところが思い出されました。当時は気づかなかった彼の性格、優柔不断、大人であったこと、そしてずるさなども客観的に見えてきました。思いは風船のように空へ舞いあがり、余分なものをそぎおとした、ありのままのほのかだけが残りました。歌の中で、ほのかは強く成長していきました。そして、自由に何かを書くのは、とても楽しいことでした。ほのかはもう一度、書くことに取り組もうと決心しました。
39.妖精詩集 恋のハカリ方 「アイシテル」「どのくらい?」
男「アイシテル」 女「どのくらい……?」 男「10センチ」 女 男の両耳を思いっきりひっぱる 男「100ワット」 女 男のほほをバッシッとひっぱたく 男「1000万円」 女 男のお腹に強烈なパンチを見舞う 男「アザラシ一億頭」 女 男を苦労して背負い投げにする 男「彗星一兆個」 女 男の胸にナイフをつきたてる 男「う・う・う……80キロ」 重いカラダが女をおおう ふたりの全身が赤くそまる 女「アイシテル」 男「……」
妖精のレッスン(下)へ続く
本ページには岩田裕子著『妖精のレッスン―じぶんを見つける50のレシピ』の文章(26~39)を掲載。