2046

シネマの宝石学
―洗練された大人のおとぎ話13

恋する宝石たち

2046では、壮大なネットワークが地球上にひろがっている。妖しげな列車が2046に向かって時々出発していく。2046に行くすべての乗客の目的は、ただひとつ。なくした記憶をみつけるため。なぜなら2046では何も変わらないから。それが本当か誰も知らない。だって、誰もあそこから帰ってきたやつはいないから。俺一人を除いては。木村拓哉のこんなモノローグから始まる「2046」。

「ブレードランナー」を思わせるゴージャスな未来世界から始まる不思議な映画は、次の場面で1960年代シンガポールのうらぶれた町を映し出し、その落差に快く驚かされる。こんな裏切りがウォン・カーウァイの魅力なのだ。ウォン・カーウァイという監督は魔酒なのだとつくづく思う。ひたってしまうと、この快感の罠から逃れられない。逃れようとも思わない。2046という架空の街に引き込まれ、ミステリートレインに乗って、アンドロイドに恋をし、帰る気をなくした多くの人々のように。

去年の秋、公開されたときは、2種類の感想があったという。キムタクファンが見にいって、なんだかさっぱりわからなかったといったらしい。一方、ウォン・カーウァイ・フリークのほうは、芳醇な大人の香り、ほろ苦い甘さに酔いしれた。なじみの世界がより贅沢に、よりスケールが大きくなって、帰ってきたのだから。

登場人物は、以前の作品の主人公たちだし、物語も音楽も前の物語たちと微妙に交錯していて、しかしすべてが裏切られていく。最大の絶望のあとに、甘やかな音楽が入り、すべてを混ぜ返し、この世はこんなふうに、両面があることを教えてくれる。それが彼の作品群だ。「2046」は、そんな彼の世界の集大成なのである。

未来世界とうらぶれたアジアの下町とのギャップの美しさ。清新な若者の恋と、性愛の果てに別れる男女。ベリーニのオペラと情熱的なラテン音楽。すべてが対比であり、人生には両面があることを教えてくれる。バランス感覚。死にも近づくほどの苦しみも、裏を返せば、甘美な思い出。思い出は裏切らない。

映像が凝っているだけで、ストーリーは単純だ。2046とは、主人公のチャウ(トニー・レオン)が描く近未来小説のタイトルなのだ。チャウが生息するのは、1960年代の香港。新聞記者からコラムニスト、そして生活のため、官能小説家に転向したチャウは、夜の世界にひたりはじめ、これまで何人もの女たちと刹那的な恋愛を繰り返してきた。

ひょんなことから、ある古いホテルに住むことになったのだが、その部屋は2047号室。本当は2046に泊まりたかったのだが、めぐり合わせでそうなった。ホテルのオーナーの娘は日本人青年(木村拓哉)と恋に落ちた。その早熟な妹はドラマーと駆け落ち。隣の2046号室に住む美女とつかの間の恋をする。そんな現実から逃れるように、チャウは小説を書き始めた。

小説の舞台は、西暦2046年。若い男(キムタク)が、謎の列車に乗り込み、2046をめざすのだ。そこでは失った愛が取り戻せるという。男は客室乗務員を勤める美しいアンドロイド(フェイ・ウォン)に恋をした。アンドロイドは、壊れ気味で、冗談を聞いても笑うのは数時間後、悲しいときも、涙を流すのは翌日になる。叶わぬ恋に苦しむ主人公は、昔、愛した人を失った、チャウ自身に他ならなかった。

チャウとかかわる女たち いわば、香港版好色一代男(井原西鶴)のようなチャウは、遊びで女とつきあうことはできても、本当に人を愛することは出来ない。スー・リーチャン(マギー・チャン)という過去に愛した女のことが忘れられないからだ。その女はこの映画では、カットバックでちょっとしかでてこない。

彼女との愛の形は、前作「花様年華」に描かれている。このときのチャウは、まじめな新聞記者であり、まじめな夫だった。スー・リーチャンとの恋も、ストイックといえるほど、きまじめなものだった。しかし時はたち、チャウは、変わった。女たちが次々と現れ、チャウの前を通り過ぎていった。

一人目の女

一人目の女は、中国を代表する女優コン・リーが演じている。彼女とは、スー・リーチャンと別れて向かったシンガポールで出会った。女はプロのギャンブラーで、負けが込んで身動きが取れないチャウを助けてくれた。右手だけにはめられた黒い手袋、そして小さなドロップタイプの真珠のイヤリング。何故右手だけなのか、義手だといううわさもあるが、女は何も語らない。真珠の女は、その宝石と同じ、謎と忍従の女だった。

チャウが誘った。「いっしょに香港に行こう」「トランプで勝ったら、あなたと行くわ」。プロの彼女に勝てるわけがない。雨の夜、二人は別れた。この女もスー・リーチャンといった。満開の牡丹のように彼女は去った。

二人目の女

1 9 6 6 年クリスマスイブ。チャウは、シンガポールでショーにでていたルル(カリーナ・ラウ)というダンサーと再会した。ルルは「欲望の翼」(1960年公開)の登場人物で、遊び人の華僑の息子(レスリー・チャン)を愛して捨てられた情熱の女である。感情のまま生きる奔放な彼女は、指からはみ出すほど大きなダイアモンドの指輪をはめ、同じダイアモンドの重そうなほど大きなイヤリングをつけていた。ゴージャスで不幸な香りのするジュエリーだった。

ルルはチャウのことを覚えていないという。その昔、死んだ恋人に似ているといい、彼にダンスを教えてくれたのに。忘れてしまった過去。チャウはそれを思い出させた。彼女は血の海の中で死んだ。それは古いホテルの2046号室だった。殺したのは、恋人の若いドラマーだった。しかし本当はずっと前から死んでいたのかもしれない。それとも戻らない過去という海で、おぼれ死んだのだろうか。チャウは、この部屋に越したいというが、改装しなければならないので、2047号室に住むことにする。

三人目の女

このホテルのオーナーの娘で、日本人青年と恋をするのがジン・ウェン(フェイ・ウォン)だ。日本人嫌いな父に引き裂かれた彼女の思いは、失った恋に泣くヒロインの登場するオペラ「ノルデ」の旋律で表されている。この一家はオペラ好きなのだ。おとなしく、生真面目なジン・ウェンは、白い胸元にも何もつけていない。 ジュエリーをつけない女は、チャウの寄せる関心にも気づかず、思いを昇華できなくて入院してしまう。

彼女に扮するフェイ・ウォンは大ヒット作「恋する惑星」(1964年)では、若い警官トニー・レオンにひとめぼれをするホットドッグ屋の女の子だった。このときは、ひたすら初々しかったトニーも年を重ね、「2046」は、憧憬と喪失感の物語となった。そのわりにフェイのほうは今も若い。「恋する惑星」は、意外性のある展開で、だからこそリアリティがあった。

「2046」のフェイの恋愛は、よくある話でうそっぽい。娘は感情をあらわにせず、文楽人形のように清潔だ。無表情のままアンドロイドとなって、小説のなかで、激しい恋をする。

四人目の女

チャン・ツィイー演じるバイ・リンは、この作品のために作られた登場人物で、そのエピソードは現在進行形だ。それだけに、たくさんの女たちのなかで一番生き生きしているし、その物語は切実に心にしみる。イヤリングをつける女。宝石の似合う女。男を誘惑するけれど、決して必要とはしない。

バイ・リンは、ザビア・クガートのラテン音楽と共に登場した。赤い豹柄のチャイナドレスにガーネットの同じ色のイヤリングを揺らしている。クリスマスには、緑に茶が混じったチャイナドレスに翡翠のイヤリングが効いていた。あるときは、涙をかたどった真珠のイヤリングをかわいく揺らし、真珠の三連のネックレスをして、男に甘えた。イヤリングは服により変わる。全部が本物ではないかもしれない。

しかしお気に入りのダイアモンドの指輪は極上品だ。トランプのダイアの形にメレダイアがしきつめられている。第一関節を隠してしまうほど大きく、その鋭角的な輝きはまばゆい。キュートで尖った美しい指輪は、攻撃的に誰にも頼らず生きている彼女になんとよく似合っていたことか。

始めは遊びだった。チャウが彼女を連れ出す手順は、女を誘うのがうまい男の面目躍如である。この女もしたたかで、男の扱いに慣れている女だった。始めて会った日、女は男をひっぱたいた。慣れてくると、猫のように色っぽく男に甘え、特別な日にすっぽかすこともできた。そういうことが天性でできる女だった。

「予測できないから面白い」。始めはチャウが夢中だった。二人は愛し合う。情欲のままに。そしていつしか関係は逆転する。愛し合った後、いつもつっぱっていた彼女の顔が、年そのままにかわいくなった。バイ・リンがもっと確かな関係を望んだとき、チャウは冷たく拒絶した。今度は男がこれ以上ないほど、残酷になった。

それにしても男をひっぱたくバイ・リンも美しかったが、男に嫉妬して髪ふり乱すバイ・リンもおなじほど美しいのはなぜだろう。女はやがて去り、次に会ったのは1年半後だった。彼女は謙虚でおとなしい女になっていた。牙を抜かれた猛獣。チャウのことはまだ愛していた。

その指に、鋭角的なひし形の指輪はなかった。新しい指輪にはオーバルカットの黒い石が付いていた。耳には、程よいサイズのダイアモンドが光り、良識ある大人の女がそこにいた。バイ・リンは明日シンガポールにたつという。チャウは、やさしかった。昔からの友達のように。別れてから、彼女は少し泣き、二人は二度と会わなかった。戻ってこない過去は美しい。

近況(本稿執筆当時)

このページのため、ウォン・カーウァイの作品を全部見直し、日常すべて、浸りきってしまいました。文化出版局「ミセス8月号」(7月7日発売)のダイヤモンド特集に4ページ書いていますので、ご覧いただけましたら、うれしいです。

岩田裕子