ダイヤモンドA to Z(中)


ダイヤモンドA to Z
やさしくて残酷な魂 [I]-[Q]

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I――魔性  宝石のために死んだ王たち

はるか5000年の昔、インドのゴルコンダ鉱山で、大きなダイヤモンドが発見されました。原石で800カラット。大人の男性の手のひらをおおいつくすほどの大きさでした。ダイヤモンドを好きなのは女だけ――と根拠のない偏見を持っている人に、この巨大なダイヤモンドがそうではないことを教えてくれます。

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後年、「コ・イ・ヌール」と呼ばれるようになるこの石こそ、賢く、美しく、権力があり、残忍でもある極上の男たちを何人も虜にすることになるのです。その男たちとは、浅黒い肌、涼やかな瞳、濃い眉と整ったひげのセクシーな、戦争上手の皇帝たちです。女が嫉妬してしまいそうなほど濃密なダイヤモンドと男たちの恋愛ゲーム。持ち主の顔ぶれをざっと披露してみると。

①ムガール帝国創始者バーブル(参考リンク
有名な持ち主のひとりめは、ムガール帝国の初代皇帝バーブル。彼の先祖にはティムール帝国の創始者ティムール、蒙古の創始者ジンギス・ハーンがいるのです。16世紀前半、バーブルは40代半ばの若さで西北インドを統一しました。肖像画によると、鋭敏さを感じさせる、すっきりとした風貌。人をひきつけるカリスマの持ち主。天性の英雄なのです。

彼がパンジャブ地方(北部インド)の有力者イブラヒム・ロディを破ったとき、その母親がふるえる指先で金の箱を手渡しました。あけてみると、それはそれは巨大なダイヤモンド。ヒマラヤの湖よりも透明な輝きをたたえている。バーブルは、この石にひとめぼれしてしまいます。以後、数百年、この石は「バーブルのダイヤモンド」と呼ばれることになりました。専門家に鑑定させると「全世界が一日に使う費用の総額の半分の値段」と答えました。数字では計り切れぬほど莫大な価値ということです。

あるとき、皇太子フユマンが病に倒れました。ずる賢い祈祷師がやってきて「皇帝のいちばん大切なものを神にささげれば完治いたします」と進言しました。例のダイヤモンドをまき上げようと考えたのです。しかし、バーブルはその手にのりません。「いちばん大切なのは自分の命だ」と答え、ダイヤモンドを手離すことはありませんでした。

しばらくして王子は回復し、バーブルは急病で命を落としてしまいます。祈祷師の予言が結果的に当たってしまったのでした。後継者のフユマンは力の弱い皇帝でした。彼は26年間の治世のうち15年を敵から逃げ惑うために費やします。放浪の果てにペルシャへたどりつき、手厚くもてなされました。その扱いの謝礼として、フユマンは父のダイヤモンドをペルシャの皇帝、シャー・ターマスプに贈りました。


②ペルシャの皇帝シャー・ターマスプ
この皇帝は豊かなあごひげと太い眉、眼力の強さが印象的な野性的な男でした。彼は贈られたダイヤモンドの尋常でない美しさに驚きました。ここでも専門家に鑑定させると、「国家の1年分の予算にも匹敵します」。

彼はこの石を同盟を結びたい相手、インドの小国アーマドナガルのシャーあての引出物にすることにしたのです。使者に選ばれたのは、忠義者で知られたメフタル・ジャマル。しかしこの石に目がくらんだ使者はそれまでの評判をかなぐり捨てて、持ち逃げ。シャー・ターマスプは怒り狂い、男を探しましたが行方不明。ダイヤモンドは戻ってきませんでした。


③ムガール皇帝シャー・ジャハン(参考リンク
ダイヤモンドは再びムガール帝国に姿を現します。時の皇帝はフユマンの曾孫に当たるシャー・ジャハン。世界一美しい霊廟タージ・マハールを建立したことで有名な皇帝です。芸術家の資質を持ったシャー・ジャハンは、細身の体躯、繊細な雰囲気のある皇帝でした。彼のもとに「バーブルのダイヤモンド」を運んだのは、隣国ゴルコンダの重臣ミル・ジュムラ。なぜ彼のもとに渡ったのかはわかりません。彼はもともとペルシャのダイヤモンド商人でした。

当時、シャー・ジャハンは息子アウランゼブと険悪な仲でした。計算高いミル・ジュムラは息子のほうにも抜け目なく質のよいダイヤモンドを贈っています。権力欲の強いアウランゼブの前に、繊細な父は敗れ去ります。アウランゼブは父親を幽閉、シャー・ジャハンは失意のうちに命を落としてしまいます。ダイヤモンドはアウランゼブのものになりました。この頃がムガール帝国の絶頂期でした。彼の後、数名のひ弱な皇帝が続き、国力は次第に衰えていきます。


④ペルシャの皇帝ナディル・シャー(参考リンク
「バーブルのダイヤモンド」を「コ・イ・ヌール」という名に変えたのは、ペルシャの奴隷の青年でした。彼の出世のしかたは、豊臣秀吉にも負けません。母と共に奴隷とされてしまった青年ナディル・クリは、18歳の頃は無名の羊飼いでした。その後、母の死をきっかけに逃亡。

都の役人をふり出しに権力の階段を一気に駆けのぼり、1736年、ついにはペルシャ皇帝ナディル・シャーとして人々の上に君臨することになります。肖像画で見ると、羽根飾りのついたターバンのよく似合う、太りじしの勇敢な男です。自分ひとりの手で権力を勝ちとっただけに、強い自信のうかがえる堂々たる美しき王でした。彼が没落の途にあるムガール帝国から、例のダイヤモンドを奪いとりました。

当時のムガール皇帝ムハメッド・シャーは、贅沢好きの怠惰な男。ペルシャとの戦いでは、たった2時間で敗れ去り、代々の財宝はすべてナディル・シャーに奪われてしまいます。しかしムハメッド・シャーは「バーブルのダイヤモンド」だけは隠してしまいます。ナディルは絶対に手に入れたいのです。あるとき、ムハメッドのハーレムの女が隠し場所をこっそり教えてくれました。

大宴会の日、ナディルはムハメッドにターバンの交換を申し込みました。ターバンの交換はイスラム教徒の友好の儀式なのです。すました顔で自分のターバンをさし出すムハメッド。ちょっと意外なナディル。あの女は嘘を言ったのか。しかし……。陣営に戻ってターバンをほどくと、ぼろんと転がり落ちた光のカタマリ! 「コ・イ・ヌール(光の山)!」とナディル・シャーは叫んだのです。憧れのダイヤモンドは、ここにありました。


⑤ペルシャの皇帝シャー・ルク
次の持ち主の運命は悲惨です。ナディル・シャーはすでに暗殺され、その息子シャー・ルクに「コ・イ・ヌール」(そう呼ばれるようになっていました)は渡っていました。シャー・ルクはすぐナディルの後継者になったわけではありません。次期皇帝アディル・シャーは残忍な男で、王族を弾圧。たった5歳のアガー・ムハマド・ハーンを去勢したこともありました。

その後アディルは皇帝の座を弟に奪われ、盲目にされて失脚。その弟も自らの軍隊に暗殺されました。そして、浮かびあがったのは、まだ少年だったシャー・ルク。彼は早速即位し、その後、50年間皇帝の座にありましたが、名目だけの君主でした。年老いたシャー・ルクを追い落としたのは、あの5歳で去勢されたアガー・ムハマド・ハーンだったのです。幼いときのトラウマからか、彼の恐ろしい性格はペルシャ史上にきわだっています。

アガーはシャー・ルクに「コ・イ・ヌール」を渡すよう迫ります。ルクは言うことをききません。ついには頭髪をそられ、そこに粘土で囲いを作られ、熱湯をそそがれ……。シャー・ルクはショック死してしまいます。その頃「コ・イ・ヌール」は、シャー・ルクの援護をしていたアフガニスタンの王アフマド・アブダリのもとに送られていました。


⑥アフガニスタンの兄弟戦争
アフマド・アブダリの息子ティムールは弱い王でしたが、息子を23人ももうけました。権力者の一家にとって兄弟の多さは政争に発展しやすいのです。息子たちは王座とダイヤモンドをめぐり、血で血を洗う争いをくりひろげます。

1793年、長男ザーマン・シャーが父を追い出し、そのふたつを奪いとりました。6年後、弟のマームドが長男の目をつぶし、王位に。4年後、別の弟シュジャがマームドを投獄して王座に。その後、マームドが脱獄して復位。そこへ長男ザーマンがシュジャに味方をし、再びシュジャが王位と「コ・イ・ヌール」の持ち主に――とめまぐるしいこと!


⑦パンジャブの王ランジット・シン(参考リンク
1810年、アフガニスタンは分裂しました。ザーマンとシュジャと「コ・イ・ヌール」は、北部インドの王「パンジャブのライオン」と恐れられる勇猛果敢なランジット・シンのもとへ逃げこんだのです。ランジット・シンは胸までのばしたあごひげがトレードマークの眼光鋭い男。

元アフガニスタン君主の兄弟は、宝石をよく知らない彼をだまして、大きなトパーズを「コ・イ・ヌール」だと言って進呈。後にそれがばれて、糾弾され、本物の「コ・イ・ヌール」を彼に奪われてしまいます。「パンジャブのライオン」は何よりも戦場の好きな男で、ダイヤモンドなど興味はなかったのです。それなのに「コ・イ・ヌール」には夢中になってしまいました。両側に小さめのダイヤモンドを配して腕輪にしたて、最強の王者の印として死ぬまで愛用したのです。


⑧パンジャブの王デュリップ・シン(参考リンク
その後、何人か非力な王の続いたパンジャブに、未成年で王となったのがデュリップ・シンでした。彼こそ、「コ・イ・ヌール」を所有することのできた、最後のアジアの王でした。魔性の石に翻弄された、最後の男でもありました。

というのも彼の治世の間に2度の大戦があり、パンジャブは大英帝国の領土となってしまったからです。1849年3月29日、首都ラホールの城にユニオン・ジャックがひるがえりました。デユリップ・シンは名のみの王となり、同時に名宝「コ・イ・ヌール」は、英国君主ヴィクトリア女王に献上されることになりました。

悲劇の王デュリップ・シンの全身を描いた肖像画があります。憂いを含んだまなざし、自らの運命を静かに受け入れている。すっきり通った鼻すじは王族としての威厳を、繊細な口もとは贅沢を知りつくした男の華やかさを、濃いひげは彼らの種族の猛々しい歴史を感じさせる。そして、豪奢な絹の衣装をまとった立ち姿の優美なこと。彼がダイヤモンドをたずさえてヴィクトリア女王のいるバッキンガム宮殿に現れると、宮殿中の女性の視線をくぎづけにしたといわれます。デュリップ・シンこそ、とびきり上等なダイヤモンドのよく似合う、華やかな男の象徴でした。

この石には、あるときから言い伝えが生まれたといいます。「コ・イ・ヌール」を持つものは世界を征服する、と。男たちが王位奪還のために血なまぐさい争いをくり返してきたのも、石の持つ魔性のしわざだったのでしょうか。とはいえ、「コ・イ・ヌール」は彼らのもとを去りました。現在は、エリザベス皇太后の戴冠式用の王冠の中央にセットされています。


J――悲劇  帝国を崩壊させた曲線

えもいわれぬ曲線を持つダイヤモンド。クッション・カットとオーバル・シェイプを足して2で割ったような、微妙なフォルム。ベンハジという寺に建つ偶像の目として埋めこまれていた、という伝説から、アイドルズ・アイ(偶像の目)と呼ばれています。フローレスの純度を誇り、70.20カラットの大きさを持つこの魅惑の宝石が、一国を傾けたという噂は本当でしょうか。

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発見されたのは、1600年頃、インドのゴルコンダ鉱山でした。この石にまつわるエピソードは、千一夜物語さながらにエキゾティックです。17世紀初頭、アイドルズ・アイの持ち主はペルシャの若き王子ラハブでした。彼は遊び好きで借金が多かったらしく、東インド会社が借金のカタにこの石を取り上げたといいます。

その200年余り後には、オスマン帝国(現在のトルコ)の第34代スルタン、アブドゥル・ハミト2世のもとにありました。この国に渡ったいきさつとして、こんな言い伝えがあります。アブドゥル・ハミト2世の先代のスルタンがカシミールのスルタンの恋人である、美しきラシェータ姫にひとめぼれしたのです。ある夜、ラシェータ姫を強奪。カシミール王は嘆き悲しみ、どんなことでも聞くから返してくれ、と伝令を送りました。

オスマン帝国のスルタンは言い放ちました。世にも魅惑的なダイヤモンド、アイドルズ・アイをくれるならば姫を返してもよいのだが、と。オスマンのスルタンにしてみれば、まさかそこまではできないだろうと計算してのことでした。もちろんカシミールのスルタンにとって、それはあまりに苦しい選択でした。しかし愛するラシェータ姫には代えられず、泣く泣く石を渡したといいます。

とはいえ、この姫君にまつわるエピソードも、先のラハブ王子の件も単なる伝説ではないかという見方も濃厚です。だけど、それがどうだというのでしょう。事実であろうとなかろうと、神秘的な物語のベールを幾枚もまとっていることこそ、極上のダイヤモンドの証明ではないでしょうか。

アイドルズ・アイが19世紀後半、アブドゥル・ハミト2世のもとにあったことは事実です。スルタン・ハミトは13世紀から続くオスマン帝国の歴代スルタンの中でも宝石好きで有名でした。代々のスルタンが集めた美しく、豪華な宝飾品の数々は今もイスタンブールにあるトプカピ・サライ美術館で見ることができます。スルタン・ハミトは数ある名宝の中でも、アイドルズ・アイをとりわけ愛したといわれます。

しかし彼は先祖のスルタンたちのように、贅沢のみにひたって暮らしているわけにはいきませんでした。時は19世紀。ヨーロッパ列強に圧倒され、国内には革命の不穏な空気がみなぎり、オスマン帝国はまさに「瀕死の病人」の状態でした。スルタンは外交に、革命の弾圧に必死となりましたが、1908年、青年トルコ党の革命が勃発。翌年、スルタン・ハミトは皇帝の座を追われ、1918年、イスタンブールで命を落としました。国内は大混乱、スルタンのハーレムも崩壊し、美女たちも各地へ散っていきます(このへんの事情を描いた「ラスト・ハーレム」という映画が2000年に公開されました)。そしてとうとう1922年、オスマン帝国は滅亡しました。

アイドルズ・アイは、この帝国の栄枯盛衰を眺めていたことになります。この石の魔力が、ひとつの帝国を破滅に追いこんだのでしょうか。皇帝は生前に、このお気に入りのダイヤモンドの他、数個の名宝を信頼できる従僕に託し、パリへ逃がしたといいます。国が崩壊してしまえば、宝石は真っ先に没収されてしまうからです。しかしこの従僕は王を裏切り、パリで宝石を売り飛ばしました。その後、スペインのさる貴族がアイドルズ・アイを買いとり、ロンドンの銀行へ預けておきました。

第2次大戦後、アイドルズ・アイは再び世に現れ、ハリー・ウィンストンの手に渡ります。翌年、ウィンストンは美貌の富豪、メイ・ボンフィルズ・スタントン夫人に売却しました。アイドルズ・アイがダイヤモンド・ネックレス――41個のブリリアント・カットと49個のバゲットをつなげた――にセットされたのは、このときです。スタントン夫人は、ヴェルサイユ宮殿にも似た大邸宅でひとり暮らしをしていました。毎朝、夫人は正装してアイドルズ・アイを胸にさげ、ひとりきりの朝食をとったということです。

ところで、このダイヤモンドは国を傾けたのでしょうか。アイドルズ・アイは無実だともいわれています。当時、アブドゥル・ハミト2世の宝物庫には、あの呪われたダイヤモンド「ホープ」もまた保管されていたのです。国が傾くという悲劇は、ホープのせいという説も強力です。どちらにしろ……。アイドルズ・アイは今もさる富豪のもとで、明るく無邪気に輝いているだけ。


K――神話  インドの曙と英雄物語

人類始まって以来、つい最近まで、ダイヤモンドといえばインドでした。18世紀初頭にブラジルでダイヤモンド鉱山が発見されるまで、ダイヤモンドはインドだけでしか産出されなかったのです。厳密に言えばボルネオでも見つかりましたが、他国に輸出できるほどの産出量ではありませんでした。インドで初めてダイヤモンドが見つかったのは、いつ頃のことでしょうか。世界最古のダイヤモンド「コ・イ・ヌール」が発見されたのは、約5000年昔といわれています。

しかしインドの言い伝えによれば、それは神々が人間たちのごく近くに住んでいた、神話の時代にさかのぼるのです。ある朝、インドの7つの聖なる川のひとつ、ヤムナ川のほとりで遊んでいた貧しい象使いの娘が、アシの茂みにひそんでいるひとりの子どもを見つけました。それは金色に輝くよろいを身につけた、世にも美しい男の子でした。何よりも驚いたのは、彼の額に光る石。ちょうど第3の目と呼ばれるあたりに、目にも眩い輝く石が埋めこまれていたのです。言い伝えによれば、このときこそ世界最古のダイヤモンド「コ・イ・ヌール」が地上に姿を現した瞬間だということです。

子どもの名はカルナといいました。太陽神スリヤと、そのあたりを領地としているカウラヴァス家の王女との間に生まれた男の子でした。カルナはカウラヴァス家の王のもとに届けられ、王子として育てられました。しかし青年になると、いとこの王子との王位継承戦争に巻きこまれてしまいます。カルナは自分に絶対の自信を持っていました。額にダイヤモンドのあるかぎり、無敵と信じていたのです。ところが敵方にクリシュナ神が味方しました。

カルナは無残にも殺され、ダイヤモンドは地べたに転がり落ちました。まもなく、ひとりの若い娘がシバ神へ捧げる供物を手にしてやってきました。そして、この輝く石を拾い上げ、シバ神を祀る寺院へ届けたのです。寺院のバラモンは輝く石をシバ神の像の額の中心に埋めこみました。ダイヤモンドはシバ神の「第3の目」となりました。ある男がこの美しい石に目をつけ、盗もうとしたけれど、翌朝、寺の扉が開かれたときにはすでに死んでいたといいます。

バラモンは、この石に関して不吉な予言をしています。「このダイヤモンドを所有する者は、世界を所有するであろう。しかし同時に最も不幸な災難にも遭遇するだろう。これを無事に身につけることができるのは、神と女性だけであるからだ」 この予言が当たっているかは、前々項をお読みいただければわかります。カルナのようにこのダイヤモンドを所有した美しき王たちがどうなったか? そして、ある女性の手に渡るのですが、それは誰なのか? 後年、「コ・イ・ヌール」と呼ばれるようになるダイヤモンドの起源の物語。これで終わります。

「コ・イ・ヌール」の他「グレート・ムガール」や「リージェント」といった有名なダイヤモンドを次々と産出したのは、インドの中でも古代ゴルコンダ王国の支配するコラール鉱山やパーシャル鉱山あたりでした。この王国はダイヤモンドに富んでいたため、ムガール帝国皇帝アウランゼブに征服され、滅んでしまいます。ゴルコンダ地方はムガール帝国の一部になりました。

ちょうどこの頃、フランスの宝石商で旅行家のジャン・バティスト・タヴェルニエがこの地を訪れ、ダイヤモンドについていろいろ書き留めています。この頃、インドのダイヤモンドは、砂岩や礫岩、川床の砂利、砂の中などで発見されていたそうです。タヴェルニエによれば、砂地を鉄のカギでひっかき、小石を探り当てます。砂まじりの小石を水で洗い、その中からキラリと光るダイヤモンドの原石をつまみ上げるのです。

また、ここぞと目をつけた場所の砂を掘り、大きなフルイの上でそれを広げ、水をかけてゆすぶりながら、選別する方法もありました。ダイヤモンドの売買をするときは、お互いに右手を出してそれを布でおおい、相手の指の形を探って値段の交渉をするのです。インドのダイヤモンドは、長い間、このような形で採掘されました。18世紀に入り、その産出量にかげりが出始めた頃、ブラジルが脚光を浴びるようになります。20世紀に入り、ほとんど採りつくされたとみられています。インドという国を輝かせていたダイヤモンドの歴史――今では神話の彼方です。


L――奴隷  ブラジルの百年の夢

ブラジルのダイヤモンドを発見したのは、当時この地を統治していたポルトガルから来た人々でした。1720年代半ば、ブラジル南東部のミナス・ジェライス州テジュコの砂金採取場に、ひとりのダイヤモンド商人が立ち寄りました。インドに住んだ経験のあるポルトガル人、セバスティノ・レメード・プラドがその人です。

彼は砂金掘りたちのトランプ遊びをのぞき、その数取りの石に心ひかれます。なんの変哲もない小石だけど輝きがある。インドで見てきたダイヤモンドの原石に似ている、と。プラドは男たちの唖然とした表情にも気づかず、いくつもの数取り石を手にとって、じっと眺めました。そして確信したのです。「これは、ダイヤモンドだ!」と。砂金掘りたちはわけがわかりません。彼らはダイヤモンドを見たことがなかったので、そのへんの小石のうちきれいなのを拾い、遊びに使っていただけでした。

ダイヤモンドが見つかった、という噂はじわじわと囲囲に広まりました。2年後、ベルナルディノ・ダ・フォンセカ・ロボというポルトガル人がこれらの石をリスボンに運びます。ポルトガル、王室はアムステルダムに鑑定を頼みました。1729年、ポルトガル政府は正式にダイヤモンド発見の事実を公表。1730年には、テジュコを王室の所有とし、住民は追い出され、警備のための軍隊が派遣されました。

未開の地であったブラジルが、突然、輝けるダイヤモンドの国となったのです。ダイヤモンド・ラッシユ! 誰もがダイヤモンド掘りに夢中になりました。各国から山師や渡り者がやってきました。船乗りも船から降り、農民も畑を捨てて、ダイヤモンド掘りに狂奔しました。人々は日曜日に釣りに行くかわりに、ダイヤモンド探しに出かけました。

実際に、かなりのダイヤモンドが産出したのです。このことで困る誰か(一説にはインドのダイヤモンド商人だとも)が、ブラジルのダイヤモンドは質が悪いという噂をばらまきました。ブラジルはインドへ石を輸出し、インド産のダイヤモンドとして売り出すことで対抗しました。しかし次第に噂も消え、インドのダイヤモンド市場は没落していきます。

ブラジルでこれほど産出するのには、ガリンペイロと呼ばれるダイヤモンド探したちや数え切れないほどの奴隷たちの血と汗がありました。ブラジルの採取場は広範囲にわたり、ひとつの場所からの産出量が少ないので、大規模な組織は入りにくいのです。ガリンペイロたちは粗末な小屋に住み、川床や高原をひたすら掘り進みました。毎日が華麗な賭けでした。砂礫をフルイにかけ、何も残らない日が何ヵ月続こうと、明日には鉱脈が見つかって、一生左団扇で暮らせるかもしれないのです。

彼らにはサイレント・パートナーというスポンサーがつき、タバコや食料代を出してくれます。石が見つかったら、40~80%の割り合いでもうけをわけることになっています。奴隷は個人に使われている場合も、政府に属している場合もありました。8~10カラットのダイヤモンドを発見すると、彼らにはスーツ1着、新しいシャツ2枚、帽子1個、上等のナイフ1挺が与えられました。1853年に261.88カラットの大ダイヤモンド「南の星」が発見されたときは、見つけた奴隷の女性は自由の身となり、終身年金が与えられたといいます。

しかし見つけた宝石を隠そうものなら残酷な刑罰が待っていました。投獄、焼き印、鞭打ち、首に鉄の輪をはめられ、追放されるなど。奴隷はそれでも逃げおおせた場合の幸せを思い、髪の毛や口や耳の中に隠して、ダイヤモンドを盗もうとしました。そしてたいてい捕まるのです。

陰惨な運命の奴隷たちの中で、ただひとり伝説的な成功をつかんだ奴隷女がいました。その名はチカ・ダ・シルヴァ。ポルトガル人の父、船乗りのアントニオ・カエタノ・デ・ヴァとアフリカ人の母、奴隷のマリア・ダ・コスタの間に生まれた混血娘でした。彼女は、雇い主の心をつかんだのです。

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それは年若い資産家ジョアン・フェルナンデス・ダ・オリヴェイラ。その地方のポルトガル人社会の支配者で、国王に謁見を許されるほどの地位ある男でした。ジョアンはチカ・ダ・シルヴァに夢中でした。彼女はどれほどのエキゾティックな美女だったのでしょうか。しかし伝えられるところによると、チカは唇が厚く、しし鼻ででっぷりと太っており、さらに性格も悪かったということです。またジョアンと会ったとき、チカはすでに2児の母でした。

しかし恋は思案の外。奴隷女にほれこんだ大金持ちは、彼女のために壮麗な御殿を建て、果樹園と滝でまわりを囲みました。その滝には貝殻と水晶が埋めこまれていたといいます。屋敷内は一級の調度で整えられ、教会と劇場まで隣接して建てられました。しかしチカはこれだけでは満足せず、庭園内に人造湖を築かせ、そこに8人乗りの船を浮かべさせました。

夜になると、盛大なパーティーが開かれました。女主人チカは、裾の広がった美々しいドレスをまとって船に乗りこみ、まわりには着飾った客を乗せたゴンドラが、キラキラと照明を浴びながら湖を静かにすべっているのでした。まるでブラジル版千一夜物語。チカこそブラジルに君臨したダイヤモンドの女王でした。

というのもこれほどの夢のような贅沢をさせたジョアン・フェルナンデス・オリヴェイラ。その資金の出所はダイヤモンド鉱山だったからです。奴隷はただ働きだし、ポルトガル政府に多少の税を払っても、使い切れないほどの莫大なもうけがあったということです。チカという奴隷女の贅沢は、数限りない無名の奴隷たちの汗と涙であがなわれていました。1771年、オリヴェイラは突然、リスボンに召還されます。その後のチカの消息はわかりませんが、かなりの財産を贈られており、一生安泰に暮らせたことは確かです。

1822年ブラジルはポルトガル政府から独立。1838年、テジュコの町は、ディアマンティナ(ダイヤモンドの町)と名を変えました。この町の名所に、ディアマンティナ博物館があります。奴隷への責め具や、チカの寝ていた4本柱のベッドまで展示されているこの博物館は、かつてオリヴェイラの屋敷だったということです。

19世紀半ばに南アフリカでダイヤモンドが発見されます。ブラジルからも採れなくなったわけではありませんが、産出国としての順位は下がっていきます。これはブラジルのダイヤモンドが広範囲に少しずつ分散しているため、大規模な操業を行えないことによります。その後、ブラジルのある技術者が一時間で500立方メートルの砂をすくい上げる機械を開発。チカ・ダ・シルヴァと名づけました。「ダイヤモンド華やかなりし頃よ。もう一度」という気持ちをこめた命名でしょうか。しかし時代は変わったのです。百数十年にわたるブラジルの輝く夢の時代は終わりを告げ、脚光を浴びるのは今度はアフリカ大陸でした。


M――奇跡  南アフリカ大パニック

もしもあなたが何気なく拾った公園の石ころがダイヤモンドだったら、どうでしょうか。庭にばらを植えようと掘りおこしたとき、ダイヤモンドがごろごろ出てきたら、正気でいられるでしょうか。そして、あなたの町内がすべて、巨大なダイヤモンドの鉱脈の上に成り立っているとしたら? 南アフリカで起きたことは、まさしくこんな19世紀の奇跡でした。古代インドにダイヤモンドをもたらしたのは、美しき神の子でした。しかし、神々も天空に消え、魔法もきかなくなった近代に、これほどの奇跡が起きるとは、誰もが予想できなかったことです。

1866年、南アフリカにダイヤモンド神話を生み出したのは、神の子ならぬオランダ系移民の15歳の少年エラスムス・ヤコブでした。ケープタウンから800キロほど奥に入った小都市ホープタウン。その郊外を流れるオレンジ川沿いの農園に、エラスムスは両親や妹と共に住んでいました。ある日、オレンジ川の上流に当たるヴァール川へ遊びに行き、ひとつの光る石を拾いました。石の表面が削れて、日に当たると、キラキラ光ってきれいです。家に帰ると、妹にその石をあげました。

翌日、父の友人で行商人をしているジョーク・バン・ニーケルクがその石に目をつけました。彼は珍しい石のコレクションが趣味だったのです。あまりの執心ぶりを見て、エラスムスの母親はその石を彼にプレゼントします。ニーケルクは石仲間で、ハンターのジョン・オライリーにその石を見せました。彼もそれが気になり「調べてみよう」と持ち帰りました。オライリーは実は、トパーズの種ではないかと思ったのです。彼は念のため、近郊の町コールズバーグの民政官ロレンゾ・ボイズに見せました。彼も石好きのひとりでした。

これはダイヤモンドではないか、と最初に感じたのは、このボイズでした。ボイズはこれを隣町グラハムスタウンの医師であり、鉱物学者でもあるギボン・マサーストンに送りました。マサーストンは、あれこれ厳重なテストをほどこした結果、この石は21・25カラットのダイヤモンドで500ポンドの価値はあるだろうとボイズに報告しました。アフリカ大陸からダイヤモンドが! これはセンセーショナルな事件です。翌日、コールズバーグの新聞がでかでかと報道しました。

ケープタウンからは専門家が飛んできて、正式に確認したのです。この石はダイヤモンドなのだ、と。青天の霹靂! 南アフリカ中が大騒ぎ。1867年、ケープタウン政府がこの石を500ポンドで買い上げました。どういう配分になったのか、ニーケルクはそのうち350ポンドを受けとりました。彼は代金の半分を、エラスムスの父ダニエル・ヤコブに支払おうとしましたが、彼は「石ころの代金などいらない」と1銭も受けとらなかったといいます。

この石はユーレカ(ギリシャ語で「我は発見せり」の意味)と名づけられ、後にパリ万国博にも出品されました。こうして南アフリカのダイヤモンド発見は世界的なニュースとなりました。史上空前のダイヤモンド・ラッシュは、こんなふうにさりげなく幕開けしたのです。

次のダイヤモンドを見つけたのは、貧しいさすらいの羊飼いブーイでした。人々が必死でヴァール川の近くを探し、なかなか発見できなくて、あきらめ始めた頃、ブーイはオレンジ川の近くで、異様に光る石を拾ったのです。彼は近くの農家に石を見せ「これでひと晩泊めてくれ」と無欲なお願いをしました。しかし農夫は石探しにうんざりしていたのか「石ならニーケルクのとこへ行きな」と気のない様子で教えました。

ニーケルクは運のいい男です。これはダイヤモンドだと、ひとめで直感した彼は「いくらで売るか」とブーイに聞きました。なにしろエラスムスが見つけたのより4倍も大きい石なのです。「だんなの好きなだけでいいです」 値段の見当もつかないブーイは言いました。ニーケルクはためらわずに全財産を投げ出しました。羊500頭、牝牛10頭、それと自分の馬も1頭つけて。貧しい羊飼いのブーイにとって、これは奇跡以外の何物でもない出来事でした。

ニーケルクにとっても同じことでした。数ヵ月後、彼はホープタウンでこの石を売り、1万1300ポンドという莫大な金額を手にしました。後に「南アフリカの星」と呼ばれるようになったこのダイヤモンドは、クリスティーズのオークションにかけられたとき、55万2000ドルという巨額の値がつきました。

しかしこれは19世紀の奇跡の、ほんの序曲でしかありませんでした。次に見つかったのは、単なる1、2個のダイヤモンドではなく、それを豊富に含んだ鉱脈でした。ある日、イエーガースフォンテンという農地を持っていたヴィッサールという未亡人が、自分の畑で小さなめのうを見つけました。めのうの近くにはダイヤがある――と誰かに聞いていた彼女は付近を掘り、地下1~2メートルのところから、上質のダイヤモンドを発見しました。

噂を聞いて集まってきた人々に、夫人ははじめ月2ポンドで誰にでも採掘させていました(まるで潮干狩りのようです)。しかし、採掘者が増えすぎたので、ついに2000ポンドで土地を手放しました。夫人にとっては、なかなかのもうけだったのですが、そこはやがて世界的に有名なダイヤモンド鉱山イエーガースフォンテンになりました。

ある農夫は自分の土地に家を建て、そのへんの土を壁に塗りこめました。その壁に光るものがあったので、掘り出してみると、それがダイヤモンドでした。農地がダイヤモンドの鉱脈だったのです。ここは後にデュトイスパン鉱と呼ばれる、やはり有名なダイヤモンド鉱となりました。隣の農地ブルフォンテンからもダイヤモンドが見つかり、ここを買った男は大もうけをしました。

1871年5月、リチャード・ジャクソンという男がブーリツィヒトという農場に目をつけました。ここの持ち主は、D・A・デビアス、J・N・デビアスという兄弟でした。ここからもダイヤモンドが見つかりました。デビアス兄弟は11年前に50ポンドで買ったこの土地を6300ポンドで手放し、もっと静かに農業を営める土地を探して、引越していきました。自分たちの名前が、やがて世界的なダイヤモンド会社に冠せられるとは、夢にも想像せずに。

この後、キンバリー、ウェッセルトン、プレミアなどのダイヤモンド鉱山が次々と見つかり、19世紀の奇跡が完成したのです。南アフリカのダイヤモンド発見が、先のインドやブラジルとちがったのは、鉱脈が見つかったことです。たとえばデュトイスパン鉱の表面は黄色い土ですが、そこを掘ると青い土に変わります。この青い土がキンバーライトと呼ばれるダイヤモンドの鉱脈で、そこからは大量のダイヤモンドが見つかりました。

インドやブラジルのダイヤモンド産地では、手作業で採掘が行われていました。しかし南アの場合は大がかりな機械が必要となりました。つまり大資本のある会社でなければダイヤモンドの採掘にかかわれないことになり、ダイヤモンドの採掘は一大産業となりました。


N――採掘  欲望の輝き、ダイヤモンド鉱山

<ダイヤモンド鉱山>
このことばを聞くたびに、空想が広がるのです。ダイヤモンド鉱山。青白く、透きとおった氷山でしょうか。頂に炎を噴き上げる、オレンジ色の陽気な火山か。銀に輝く岩肌を、翼を広げた怪鳥が奇声をあげて守っているのか。ハンプティ・ダンプティがつるはしを背負って唄い、かたわらでアリスがダイヤモンド摘みをしてる……なんてことはないでしょうけど。「小公女」セーラのお父さん、クルー大尉が命懸けで探したのもダイヤモンド鉱山でした。

実際は、想像以上に苛酷な場所のようです。採掘者の心に夢は宿っていても、現実には不便で退屈な日常生活のくり返しでしかありませんでした。小さな詐欺から残虐なリンチまで、ありとあらゆる犯罪の巣窟でもありました。坊ちゃん育ちのクルー大尉には耐えられなかったのではないでしょうか(彼は鉱山発見のまえに病死しています)。

しかし私はだからこそ、ダイヤモンド鉱山に思いを馳せるのです。まるで地獄の一丁目といった採掘現場。男たちの血と汗、不安、あせり、欲望といった厳しい現実の洗礼を受けて生まれ出たからこそ、この宝石はいっそう輝いてみえるのではないでしょうか。ダイヤモンドの美しさは、この世に何百とある、甘ったるい夢のカタマリではありません。その輝きは、現実的な苦悩や喜びをくぐりぬけてきた実質のある美しさなのです。

ダイヤモンド鉱山といっても、川床や海岸の砂地から手作業で採掘する場合と、大資本を傾けてこそ可能な露天掘り、地中掘りなどの場合とがあります。

インドやブラジルでは、前者でした。古来、人々は鉄の鋤で川底をひっかき、掘った砂をふるいでふるったり、浅いカゴを水の中でゆするなどして、お目あての石を見つけたのです。ブラジルでは、近年、機械の導入もありましたが、一定の場所にたくさんのダイヤモンドが産出するわけではないので、大々的な採掘方法がとられることはありませんでした。

南アフリカでも、当初は、インド、ブラジルと同じような方法をとっていましたが、じょじょに形態が変化していきました。キンバーライトと呼ばれるダイヤモンドの鉱脈があることを発見したからです。キンバーライトとは、数々の鉱物に混じり、ダイヤモンドを多く含む土質のことで、地中に太いパイプ状で存在しています。当初、キンバリー鉱山で発見されたため、この名がつきました。

どのように、採掘者が個人から大資本へ移行していったかを、キンバリー鉱山を例にして見れば、こんな経過です。最初、採掘者は個人だったので、ひとりにつき、9平方メートルの土地を2区画ずつ与えられました。それが430鉱区あったそうです。各区画の間には、それぞれ4~5メートル幅の道路が通り、そこだけ残せば、どれだけ深く掘ってもかまわなかったのです。

しかし3年後には、各区画の穴が深くなり、間の道路もくずれ落ちて、鉱山は直径300メートルもある巨大な卵形の空洞となってしまいます。この巨大なクレーターは、ビッグホールと呼ばれるようになりました。そのまわりには3段がまえのウインチがおかれ、そこから繰り出されるケーブルで、ビッグホールはクモの巣のようにおおわれました。このケーブルの役目は、掘り終えた土の運搬だけでなく、鉱夫たち自身の持ち場への送り迎えにも使われたということです。

参考リンク

ビッグホールに雨が降ると、土はぐちゃぐちゃの泥になり、ポンプで水をくみ上げないと、作業を続けることもできません。つまり、かなりの設備投資をしないと採掘は不可能ということです。力のない鉱夫はその権利を売りに出すようになり、鉱区の取りまとめが起こりました。そうして、ダイヤモンド採掘は大資本が一手に引き受けるようになっていったのです。


<ダイヤモンド・ラッシュ>
ダイヤモンド・ラッシュには、にわかづくりの鉱山町がつきものです。この殺風景な欲望の町には、ふんわりした夢はカケラもありませんが、その徒花的なにぎわいに別種のロマンが感じられることも事実です。

キンバリー鉱山を例にとると、初めに集まったのはもちろん鉱夫たちでした。現地のアフリカ人、一攫千金をねらう白人、農夫や船乗り、冒険家、詐欺師、ごろつき、まじめな者、貧しい者、小金持ちなど、あらゆる種類の人間たちが一画にテントを張って、住みつきました。町が整うにつれて、彼らは家を建て始めます。たいていの者は材木や薄銅板を用いた簡素な家ですが、裕福な者はレンガの家で厳しい暑さをしのいだのです。

次に集まってきたのは、鉱夫が目あての旅商人たちでした。巡回銀行、酒場、賭博場はもとより教会や寺院まで出現し、鉱夫たちの単調な暮らしに潤いを与えました。鉱山町には、市場もたちました。近隣の農場からは8頭だての牛車で野菜や食肉、小麦粉、トウモロコシなどが運びこまれました。また食器や衣類などの日用品、サイの角や象牙、鹿皮などのおみやげ品を売る店まで出現しました。珍しい人気商品はピアノだったということです。誰もが音楽を求めたほど、暮らしが苛酷だったということでしょう。

政府はこの町に厳しい法律を課しました。人種差別は許さず、現地のアフリカ人もダイヤモンドを正当に売買できる権利が保証されていたのです。しかし現実にまかりとおったのは、弱肉強食のジャングルの掟でした。盗難が相次ぎ、盗品が堂々と売買されました。アフリカ人がカモとなり、何百ポンドもするダイヤモンドを彼らからウィスキー1本でだましとる輩も横行しました。詐欺師、ごろつき、強盗団、あらゆる悪者が鉱山にひきよせられ、治安の悪化が大問題となりました。

鉱山の男たちは政府の法律に頼れないことを知り、自分たちの法律を作り上げたのです。それは、リンチに近い方法でした。たとえばアフリカ人の労働者からダイヤを安く買いたたいた犯人は、財産を没収され、両耳は切断、全身にコールタールを塗られて、市場近くでさらし者にされたということです。また、所有者が8日間連続で留守にした鉱区は放棄したとみなされ、他の者に占拠されても文句は言えないことになりました。ダイヤモンド鉱山は無法地帯でしたが、そこから採掘されたダイヤモンドは、相変わらず美しく輝いていたのです。


O――色彩  光の花のカラフル

無色透明の石の王様がダイヤモンド――というイメージがあるけれど。珍しくも美しい、色つきのダイヤモンドがあるのです。無色のダイヤモンドが黄色みをおびるにつれて、DカラーからZカラーまで23段階に分けられている。それとはまったく別のラインの、目にもまばゆい色みをまとったダイヤモンドたち。特別に、ファンシー・カラー・ダイヤモンドと呼ばれています。色みはカナリー(黄色のあざやかなもの)、ブルー、ピンク、赤、ブラウン、黒と白など。ほとんどが淡いのですが、濃ければ濃いほど、そして色みににごりがないほど、高価になります。

①イエロー(参考リンク
カナリアの羽毛は、青みをおびた黄色。そんな色みのファンシー・イエロー・ダイヤモンド。またの名をカナリー・ダイヤモンドというのです。1000個の太陽の輝きを、ひと粒に凝縮したような、冴えたレモン色のひとしずく。目を射るほどの、無邪気な黄色で、数あるイエロー・ダイヤモンドの、輝けるスターといった存在です。

ごく普通のイエロー・ダイヤモンドは、ブラウンの石に次いで多く産出します。ファンシー・イエローのように濃い黄色ではなく、透明にうっすら黄色みがついた感じです。この黄色の正体は、ダイヤモンドにひそむ窒素のせいだとか。

19世紀末、南アフリカのケープ州で、大量に発見されたことから、宝石商には「ケープ」の名で親しまれています。ケープをダイヤモンドのカラー・グレードで計ると、Mカラー以下。上等な石とはいえません。それがZカラーをはるか越えた、明るく濃い黄色になると、ファンシー・イエローとして別格の石になるのです。

イエロー・ダイヤモンドは数が多いだけに、明度3以上なければ、ファンシー・イエローとは認定されません。ファンシー・ブルーやファンシー・ピンクが明度2以上なのに比べ、少し基準がきびしくなっています。それだけにカナリー・ダイヤモンドは、他のファンシーよりもいっそう、華やかで目を射る輝きを放っているのです。1カラットのファンシー・イエローは、同じ1カラットの無色透明な石に対して、2倍近い価格になります。


②ブルー(参考リンク
英国大使館で開かれたデビアスのパーティーで、11個の豪華なブルー・ダイヤモンドを拝見することができました。どれも大粒で、くっきりと青く、激しい輝きを四方にふりまいていたのです。それぞれ色みの濃さや形、個性がちがい、目を奪われました。ある石は北極海に沈んだ彗星のカケラのよう、ある石は、恐竜に守られた谷間の青白い百合の風情……。どれもキラキラと光って、この世の奇跡の美しさなのです。

天然のファンシー・ブルー・ダイヤモンドは、稀少価値ではピンク・ダイヤモンド以上です。青みの理由は、石に少量含まれたボロン(ほう素)なのですが、そのボロンを含んだダイヤモンドはひじょうに珍しいのです。ボロンの量が多くなるほど、色の濃いブルー・ダイヤモンドになります。その青をサファイアと比べるなら、サファイアのような、紫がかった濃青ではありません。どちらかといえば、ひとはけグレーを塗られた感じ。サファイアが密林の闇の厚みを思わせるなら、ブルー・ダイヤモンドは、空気の薄い秘境の湖のひとしずくです。どちらかといえば、理性的で、クールな青です。

いちばん有名な青ダイヤは、現在、スミソニアン博物館に所蔵されている「ホープ」ですが、それほど知られてないのに「マリー・アントワネット・ブルー」があります。宝石好きのこの王妃が、お輿入れの際、オーストリア宮廷から持参したもの。少しグレーがかったハート・シェイプの、かわいい指輪です。後にマリー・アントワネットがバスチーユに投獄されたときも、個人の持ち物だという理由で取り上げられることはありませんでした。彼女はこの指輪を大切にしていましたが、ある日、親友のポーランド公女ルポミスカにプレゼントします。その数日後、処刑されたということです。


③ピンク(参考リンク
天上の桜の園に風が吹き、ちらほらちりり……、ピンク・ダイヤモンドの花びらが降る。そんなイメージが思い浮かぶのです。天空の桜色。この世のあらゆるピンク――猫の爪、夕暮れが始まる一瞬、ストロベリー・キャンディ、KISSするくちびる――などの中で、いちばん厳かなピンク色。

インド・ムガール帝国の王たちに愛されました。とはいえ、あまりにも珍しく、見つかることがなく、王者にとっても幻のダイヤモンドだったのです。インド産の有名なピンク・ダイヤモンドに、「ヌル・ウル・アイン」(眼の輝き)と呼ばれる大きなひと粒があります。17世紀、フランス人の宝石商であり探検家でもあるジャン・バティスト・タヴェルニエがインド・ゴルコンダ地方で見つけたと、記録しています。300カラットもある巨大なピンク・ダイヤモンドが売りに出されている、と。

後に「ダリヤ・イ・ヌール」(光の海)と呼ばれるようになる、このダイヤモンドは、この直後、ムガール帝国に買い上げられました。18世紀には、ペルシャ帝国の皇帝ナディル・シャーがインドを征服。首都デリーを58日にわたって占拠し、あらゆる財宝を奪いつくしました。「ダリヤ・イ・ヌール」も例外ではありませんでした。

時代が下って、1958年、イランの故パーレヴィ国王がファラ王妃とご成婚の際、王妃のティアラが人々の度肝をぬきました。ペルシャ帝国から伝わる、極上のさまざまな色みのダイヤモンドのみで作られた、驚嘆のティアラ(ハリー・ウィンストンの製作です)。その中央に君臨しているのが、60カラットのピンク・ダイヤモンドでした。大きさは30×26×11ミリです。ピンクの濃さは、写真で見てもロゼ・ワインより濃い。これこそ「ダリヤ・イ・ヌール」の現在の姿。

あまりに大きいので、ふたつにわり「ヌル・ウル・アイン」(眼の輝き)と命名されたほうだったのです。ちなみに、もう一方は今も「ダリヤ・イ・ヌール」と呼ばれています。この美しいティアラはテヘランの国立銀行に保管されていましたが、国内の動乱を経て、現在の行方はわかっていません。

稀少価値が高いピンク色のダイヤモンドに、大粒のものはほとんどありません。10カラット以上のものは、コレクターの間を行き来しているのみです。産地はインド、ブラジル、タンザニアの他、最近、オーストラリアのアーガイル鉱山で小粒のが見つかるようになりました。小粒のは、少し青みがかったピンクです。色みの理由は、結晶に混ざったマンガンのせいだと考えられていました。しかし最近はその説も否定され、まだ謎は解明されていません。


④ブラウン(参考リンク
世界中のダイヤモンド鉱山から産出する大部分が、ブラウン・ダイヤモンドなのです。1~3世紀のローマでは、この色の指輪が珍しくありませんでした。とはいえ、その後の歴史を見ると、ブラウンはよけい者でしかありませんでした。装飾品としては渋すぎて、見映えがしなかったからです。ほとんどが捨てられ、近代になってからは工業用に回される運命でした。

ごく一部の透明度の高いブラウン・ダイヤモンドは、ダンディな紳士の指輪になるか、熱狂的な愛好家のコレクターズ・アイテムとなりました。ところが1980年代の半ば、ブラウンの歴史に変化が起きたのです。透明度が高く明るい茶の石はシャンパン・カラー、同じく暗めの石はコニャック・カラーと呼ばれるようになり、突然、人気が高まりました。渋さが魅力ととらえられるようになったのです。時代は変わりました。

その理由は、ファッションの多様化。また女性たちが社会に進出し始め、ブラウン・ダイヤモンドの屈折した華やかさをクールだと感じ始めたからでしょう。そして一説には、当時、ブラウン・ダイヤモンドを大量に採掘したオーストラリアの巧みなキャンペーンのせいだともいわれます。どんな背景があったにせよ、ファンタスティックなシャンパン・ダイヤモンドの存在は私たちの心を妖しくかき乱します。ブラウン・ダイヤモンドは現在、他にシナモン色、シェリー色などとも分類されるようになりました。


P――少女  多感な季節の微妙な関係

『赤毛のアン』
アン・シャーリーはダイヤモンドぎらいなのです。『赤毛のアン』フリークの方たち、気づいたでしょうか。その証拠は、マリラの紫水晶のブローチが紛失する有名な事件に見ることができます。アンは紫水晶を初めて見た感想を、こんなふうに話しています。

参考リンク

「紫水晶って、ただ美しいというほかないわ。あたしが考えていたダイヤモンドとおなじだわ。ずっと前、まだ一度もダイヤモンドを見たことがないときに(中略)きっと美しい、ぼうっと光る紫の石だろうと思ったの。ある日、女の人の指輪にほんとうのダイヤモンドを見たとき、あたしがっかりして泣いてしまったの。あたしの考えていたダイヤモンドみたいじゃなかったのですもの」

(モンゴメリ作『赤毛のアン』村岡花子訳 新潮文庫 以下同)

ダイヤモンドという無色透明の石が、子どもにアピールしないのは、アンに限らないこと。子どもたちは桜よりチューリップが好きというように、はっきりした色みにひかれるものですから。とはいえ、アンのダイヤモンドぎらいは、成長しても変わっていません。少女時代のアンがホテルで詩の朗読を披露したとき。会場には、ぴかぴかダイヤモンドを光らせた美しい女たちばかりでした。このときアンはこんなふうに語っています。

「たとえ、百万ドルもっていても、ダイヤモンドを何本も持ってたって(中略)あの白いレースの人になってしょっちゅうふきげんな顔をしていたいと思って」

マシュウおじさんから贈られた真珠のほうが好き、とアンは続けています。決定的なのは、婚約指輪。やはりダイヤではなく、真珠を選んでいます。

「ダイヤモンドはあたしが想像していたような美しい紫じゃないということを知って以来、好きじゃなくなったのよ。あのがっかりした日のことをいつまでも思い出させるでしょうからね」

あのがっかりした日――紫水晶の件でも語られたその日、いったい何があったのでしょうか。アン・シリーズは明るくあたたかなお話なので、つい忘れがちですが、アヴォンリーに送られてくる以前の彼女の暮らしは、悲惨の一語につきるのです。赤ちゃんのとき両親に死なれ、雇い人の家族にひきとられます。8歳までそこにおり、4人の幼児の世話をします。次にひきとられた家には、子どもが8人。当然、子守りをさせられます。その後、孤児院暮らし。学校にも行ってません。それから手ちがいで、グリーンゲイブルスに連れてこられたというわけです。

この悲惨な暮らしのどこかで、目にしたダイヤモンド。語られることのない「あの日」とは、アンの幼年期の屈辱の時間を象徴する、つらい一日だったのかもしれません。そのアンが、ついにダイヤモンドを身につける日がきます。結婚15周年の記念日に、ギルバートからプレゼントされました。このときのアンは、心から喜んでいるようです。幸せな家庭生活が、アンの心の傷を知らぬ間に、癒していたのでしょう。


『小公女』
私が子どもの頃にあこがれた理想のお父さん、それが「小公女」セーラの父、レーフ・クルー大尉なのです。作者のバーネット女史によれば「むこうみずの子どものような」人でした。若くて、立派で、お金持ち。まだ7歳のセーラを一人前のレディとして尊重し、彼女の個性を友達のように面白がっています。彼がセーラにプレゼントした品々の、ため息が出そうなほど美しいこと! 豪華な毛皮でふちどられたビロードの衣装、ふわふわしたダチョウの羽のついた帽子、テンの外とうとマップ、絹の靴下、美しい本、そして金髪のお人形、その衣装もおしゃれなパリ仕立て……。

参考リンク

このクルー大尉が夢をかけたのが、ダイヤモンド鉱山なのです。彼はインドの将校だったのですが、大学時代の友人に誘われ、ダイヤモンドの採掘に全財産をつぎこむことになります。しかしセーラのことを気にかけつつ、若くして病死してしまうことに。おそろしいミンチン先生の手に娘を残したことも知らず。いかにも坊ちゃん育ちらしく、人を疑うことのない、まっすぐな一生でした。

この父から「ダイヤモンド鉱山」を探しているという手紙をもらったセーラは、アラビアン・ナイトのお話のようだ、と空想をめぐらします。地の底の迷宮のような小道。壁にも屋根にも天井にも、キラキラした石がちりばめられていて、たくさんの鉱夫たちが重いツルハシをふるっている……と。

この小説が書かれたのは、19世紀末、1888年のこと。まさに当時は、ダイヤモンド・ラッシュの時代だったのです。ただし場所はインドではなく、南アフリカ。南アフリカで巨大な鉱脈が見つかり、男たちはぞくぞくと新天地に渡っていきました。「昨日までは一文無しでも、ひとたびダイヤを掘り当てれば、今日からは大金持ち」という奇跡が、あちこちで起こっていたのです。

そのサクセスの頂点をきわめたのが、セシル・ローズというイギリス紳士。世界一のダイヤモンド取次会社「デビアス」の創設者です。アフリカ、ジンバブエへ渡った当時、18歳の少年だったローズは、自分で石を探すのでなく、ダイヤモンド掘りに奔走している男たちに排水ポンプを売り歩きました。これが大当たり。坑道は、セーラの空想とはちがい、わき水でドロドロの状態。足が冷えて、長く掘り続けることもできません。男たちは競ってポンプを求めました。セシル・ローズはそこから得た利益で採掘者が廃業した鉱区を次々と買い上げ、1881年、デビアス鉱山会社を設立しました。それが現在のデビアスに発展したのです。

ところで『小公女』の作者バーネット女史が、ダイヤモンド鉱山の場所をインドとしたのはどうしてでしょう。18世紀初頭までは、ダイヤモンドの産地はインドだけだったのです。そのためこの石には「インド石」の別名まであるほど。でもこの頃には、鉱脈も枯れ果て、その後発見されたブラジルのダイヤモンド鉱山もすでに下火となっていました。しかし、一般人には、ダイヤモンド=インドの図式のほうが、まだまだなじみぶかかったのでしょう。『小公女』のラストでは、ダイヤモンド鉱山は見つけられています。クルー大尉の遺志を継いで、友達が掘り当てたのでした。苦労したセーラも、とうとう大金持ちに。天国のお父さんから贈られた、最後の贅沢なプレゼントでした。


Q――妖精  宝石は潜在意職を揺り動かす

『ピーター・パン』
ジエームズ・バリ作『ピーター・パン』は、一見、楽しい妖精物語です。でも何度か読み返すと、わかります。これは悲しみの物語だと。誰もが胸の片すみにひそませている、なつかしい痛み。ときおり間違えて思い出すと、チクッと心が痛む。メランコリーが広がる。しばらくすると、また胸の片すみに、まるで蝶々が羽を休めるみたいに戻っている。

そんな痛みの物語『ピーター・パン』にもダイヤモンドが登場しています。キラリと光る思い出のように。ピーター・パンの最初のガールフレンド、まだ4歳のメエミ・マナリングが遭遇したのです。ある夜、迷子になったメエミはケンジントン公園で、妖精の騎馬行列が近づいてくるのを目撃しました。6人の騎兵が前に立ち、6人があとから続き、その真中に、いやにすました貴婦人が、ドレスの長い裾をふたりの小姓に持たせて歩いてきました。

その裾の上には、ひとりの美しい女の子が、まるでそこがソファででもあるかのように、よりかかってすわっています。その子は金色の雨のドレスを着ていました。美しいのは、その頸でした。青くて、びろうどのような肌理(きめ)をしています。そこに、ダイヤモンドの頸飾りがキラキラと輝いていました。上流の妖精たちのおしゃれ術なのだそうです。彼女たちは、頸を突き刺し、そこから青い血をふき出させ、それで肌をそめてこのような美しい頸にするのです。ダイヤモンドのきらめきをひきたてる、ただそれだけのために。

参考リンク

それからメエミ・マナリングは妖精の舞踏会をのぞき、クリスマスひな菊公爵を発見しました。彼は東洋の妖精で、とびきりおしゃれな男でした。なにしろ彼は、ダイヤモンドのシャツを着ているのですから。彼は重い病気にかかっていました。心臓が冷たく凍り、誰も恋することができないという。妖精にとって、恋ができないのは命にかかわる病気。クリスマスひな菊公爵は、もうひどく衰弱していました。

彼の目の前には妖精の美女たちが次々と求愛にやってきます。でも公爵はあいかわらず苦しそう。美女とあいさつするたびに侍医が公爵の心臓に手を当て「まったく冷たい」とため息をつきました。ところが、クリスマスひな菊公爵は、とうとう恋をしたのです。静まり返っていたダイヤモンドのシャツが7色の閃光を放って、きらめきました。

そのとき目の前にいた娘は、プリンセスでも女優でもなく、貧しい歌うたいで、服はぼろぼろ、しかも決して美人ではない妖精ブラウニでした。侍医が公爵の心臓に手を触れ、「冷たい……」と言いそうになって、驚きました。「……熱い……」 妖精たちはあいついで失神しました。彼らは体が小さいので、ちょっとした衝撃にも耐えられないのです。

メエミ・マナリングは喜びの歓声をあげました。でもブラウニだけは落ち着いています。公爵が自分を愛してくれることを、心から信じていたから。私は思います。おそらくダイヤモンドが彼女を気に入ったのではないかと。この石は「成分が炭素だけ」のため純粋な性格。求愛する娘の気持ちに、少しでも玉の輿をねらうような不純な動機があったら、必ず邪魔したはずですから。可愛い妖精ブラウニは、条件に目を奪われたのではなく、本気で彼を想っていたのです。


『青い鳥』
童話に登場するダイヤモンドには、2種類があるようです。ひとつは「富と虚飾の象徴」としてのダイヤモンド。もうひとつは、虚飾をはぎとり、物事の本質をあらわにしてくれるダイヤモンド。その作家がダイヤモンドの装飾品としての華やかさに目を奪われていれば前者に、良質のダイヤモンドにはすさまじいパワーが宿っていると感じていれば後者に、描かれることになるのです。『青い鳥』のダイヤモンドは、まさに後者の代表格です。

チルチル「やあ、きれいな青い帽子だ。その徽章のところにきらきら光っているものはなに?」 妖女「これが目をよく見えるようにする大ダイヤモンドだよ。このダイヤモンドを少し回すんだよ。右から左へ、ほら、つまりこんな風にね。わかるかい? するとそれが人間にはわからない頭のこぶを押すんだよ。それで目が開くのさ」

(メーテルリンク作『青い鳥』堀口大學訳 新潮文庫)

「頭のこぶ」とは、おでこの真中にあるといわれる「第3の目」をさすのでしょう。この目が刺激されると、真実が見えるようになるのだとか。そのとおり、チルチルがダイヤモンドを回すと、すべてがガラリと変わってしまう。年とった妖女は、美しい王女さまに。壁にぬりこめられた小石は、キラキラ輝くサファイアに。白木のテーブルは大理石に。柱時計からは「時間の精たち」が飛び出し、パンの精、火の精、水の精、犬のチローや猫のチレットまでが、人間になってしゃべりだす。

参考リンク

作者のモーリス・メーテルリンクが『青い鳥』を発表したのは、1908年。その前年、心理学者ユングが精神科医フロイトに初めて出会っています。アメリカの予言者エドガー・ケイシーが活躍し始めたのも、ちょうどこの頃。神秘主義が台顕してきた20世紀初頭、そうした時代の空気が『青い鳥』を生み出したのでしょうか。

チルチルとミチルの兄妹はダイヤモンドの帽子を案内役に、「思い出の国」や「夜の宮殿」などを、「青い鳥」を探してめぐり歩くことになります。本当の幸せ――という、いたって抽象的な気分を手に入れるために。

メーテルリンクは、ベルギーの由緒ある名家の出身で、宝石を身近に感じる環境に育ちました。ダイヤモンドを虚飾の象徴として描かなかったのは、そのせいかもしれません。また彼は、すぐれた哲学者、人間の意識下の世界へ潜み入る詩人、霊魂の神秘をさぐる戯曲家としても知られています。顕在意識と潜在意識の境をつき破る小道具に、彼はダイヤモンドを選びました。極上の宝石には深い精神性が感じられることを、身をもって知っていたのでしょう。

ところで『青い鳥』には、他にも宝石が登場します。「幸福の花園」では、春の幸福をエメラルドの美しさにたとえています。また、赤ちゃんたちが誕生を待っている「未来の王国」は、サファイアの円柱、トルコ石の丸屋根、碧玉の床石、オパール色の扉でできているのです。


ダイヤモンドA to Z(下)へ続く


本ページには岩田裕子著『ダイヤモンドA to Z やさしくて残酷な魂』の文章(I~Q)を掲載。