ダイヤモンドA to Z(上)

ダイヤモンドA to Z
やさしくて残酷な魂 [A]-[H]

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A――誕生  灰色の、どってことない小石の不思議

ダイヤモンドが発見された日――は歴史のかなたのミステリアスな謎。なにしろ、この石の中には、30億年以上前に生まれたと推定できるものもあるのです。とはいえ人類の誕生は数千年前なのですから、出会いはそれからの、とある一日だったのでしょう。頭がくらくらしてしまう。

いちばん古い記録は、18世紀まで唯一のダイヤモンド産出国だったインドにあります。1905年に見つかった、古代サンスクリット語の論文「アルタ・サストラ」(利潤論)。これを書いたのは、紀元前4世紀にインドを治めていたチャンドラグプタ王(マウリア朝の始祖)の大臣カウティリフでした。

カウティリフによれば、紀元前4世紀のインドにおいて、ダイヤモンドは宝石の王としての地位を確立していました。市場ではダイヤモンドの取引がさかんに行われ、関税の対象ともなっていました。また、上質のダイヤモンドは王室に奉納されるので、国家の貴重な財源になったとも書いています。

紀元前3世紀になると、インド人たちは航海の危険を冒し、ヨーロッパまでダイヤモンドを売りにいきました。この頃になるとヨーロッパでも、この石の評価は高くなっていたからです。

そのヨーロッパ。紀元前3世紀以前に書かれた『旧約聖書』のうちの「出エジプト記」に、ダイヤモンドが登場するという説があります。ヘブライ人の高僧が身につけた「さばきの胸当て」と呼ばれる胴着があるのです。金糸で織られた四角い布に金の台をつけ、そこに12の宝石をはめこんだもの。そのひとつが、ダイヤモンドだと推定されていました。しかし最近では、この説は怪しいともされています。12の石はすべてに彫刻がほどこされていた、とあるけれど、ダイヤモンドに傷をつけることはできない、というのが「怪しい」派の意見です。

ヨーロッパで、最初にダイヤモンドを文書に書き残したのは、ギリシャ人でした。彼らはこの石を、征服しがたいという意味の「アダマス」と呼びました。これが、ダイヤモンドの語源なのです。ただし、紀元前のアダマスは「鉄」をさしていたふしもあります。はっきりダイヤモンドをさすようになったのは、紀元前1世紀頃のようです。

ギリシャ以上に、この石を貴重なものとしたのが古代ローマ人でした。西暦1世紀の有名な著述家プリニウスが、2万項目を37巻に収めた『博物誌』。その「鉱物編」で、プリニウスはこう記述しています。「アダマス(ダイヤモンド)は、単に宝石の中だけでなく、人間の所有するあらゆるものの中で、最大の価値を持っている」

当時は研磨技術も発達していなかったのですから、ダイヤモンドといえども薄灰色のどうということない小石にすぎなかったはずです。それなのになぜ、これほど珍重されるにいたったのでしょう。ダイヤモンドの魅力は、その輝き、光の強さ、虹のきらめきですが、当時のギリシャ・ローマ時代の文献に、輝きなどをほめたたえた記録は残っていません。

あれこれ調べてみると、彼らがこの石に魅せられるのは、魔術的な力や伝説によるところが大きいようです。紀元前3世紀、インドの商人は命がけで海を渡り、このさして美しくもない石のかけらを高額で売り歩くことに成功しています。彼らはそのとき、母国に伝わる不思議な伝説を、ソフトとしてつけ加えたと見ることができるのです。伝説にいろどられた比類なき硬さ。ヨーロッパ人はダイヤモンドの勁(つよ)さに魅せられ、特別な石と崇めたのです。


B――性格  知らないままで好きだなんて言わないで

人間と同じく、宝石にも性格があるのです。飛び抜けて美しい、その訳や、ちょっとした弱みだって……。本当に好きなら、全部知りたい。

①屈折率(参考リンク
ダイヤモンドはすさまじく輝く。無色なのに、内部に虹がきらめいている。赤、青、緑、オレンジ、そしてピンク……色の爆発。炎にも似ている。だから、この虹色の輝きは、ファイアーと呼ばれます。実際には、空から降る光や室内の明かりを、ダイヤモンドが受けとめ、輝きに変化させているのです。

ダイヤモンドの輝きを生むメカニズム。その秘密が、屈折率です。ダイヤモンドの屈折率は、2.42。宝石はもちろん、鉱物の中でも最高値。宝石で次に続くのは、サファイア・ルビーの1.62~77、ガーネットの1.73~89ですから、この数字は飛びぬけています。

屈折率が高いとは、その物質に入った光線が大きく曲がるということです。光線がその物質を通りぬけず、はねかえることを全反射といいますが、屈折率が高いと、全反射する光線が多くなります。これが輝きです。

あるダイヤモンドに、外から光が当たる。光はこの石に入ってくっと曲がり、石の底に当たって内部にはねかえり(全反射)、また別の面に当たってはねかえり(全反射)、そうして石の表面へとあふれ出て、炎にも似た光の洪水を見せてくれます。

同じ無色透明の石である水晶だとどうでしょうか。屈折率が1.54~55と低いので、光が石を通ってすーっと抜けてしまう。だから輝かないのです。

そして、虹色の理由は――光線には、目に見えない虹の7色が隠れています。それぞれ固有の屈折率を持って。紫色がいちばん屈折率が高く、赤が最低というふうに。ダイヤモンドに光が当たると、それぞれの屈折率に合わせて光が分散し、私たちの目にそれぞれの色が飛びこんでくるという、しくみなのです。


②硬度(参考リンク
今から数千年の昔、ダイヤモンドがまだ美しくなかった頃、それでもこの石が貴重とされたのは、硬かったからです。まだカット技術のなかった当時、この宝石は、にごった色みの、なんの変哲もない小石でした。しかし人々は、この石が何よりも硬いことに気づき、その凛とした性質に好意を抱いて、「アダマス(征服されざる石)」と命名しました。

万物の中で、最も硬い物質。なぜこれほど硬いかといえば、ダイヤモンドの結晶は原子の並び方が緊密で、タテヨコナナメとしっかり結びついているからです。硬いことは、宝石の条件です。軟らかければ、表面が削れて角が丸くなり、長く形を保つことができません。

1822年、ドイツ人の鉱物学者フリードリッヒ・モースが、鉱物の基準としてモース硬度を作りました。ダイヤモンドが最高値の10、次が9のサファイア、ルビー。しかし10と9の差は激しく、その後、作製されたヌープ硬度(硬さの相対的な比較法)によると、ダイヤモンドはサファイア、ルビーの3~4倍の硬さに相当しています。

図抜けた硬度を持つダイヤモンドですが、全然われないわけではありません。結晶のある特定の方向に衝撃を受けると、パッカリわれてしまう。原子の緊密な結びつきの中にも、少し弱い方向があるからです。どんな試練・拷問にも打ち勝つ英雄が、小犬に弱かったりするのにも似ているでしょうか。この習性を考慮して、ダイヤモンドは、ダイヤモンドでカットされたり、磨かれたりするのです。


③比重(参考リンク
宝石の比重は、2.0から4.5の間で分布しています。ダイヤモンドの場合は、ほぼ真中の3.52。比重は、宝石の品質や値段とは関係ありません。鑑定するときに役立つのです。各宝石とも、同じ比重値を持つものはなくそれぞれ固有の数字を持っています。比重は宝石の指紋のようなもの。よく似ている宝石も、比重を計れば、なんなのかすぐわかります。もちろん輝きの差で、そのまえに気づかれてしまうけれど。


④蛍光性(参考リンク
暗がりで光るダイヤモンドがあるのです。シャンデリアはもちろん、はかなげな夕暮れの薄明かりさえないというのに。暗闇の中で、青く、やさしく、ダイヤ自身が発光する……。ただし条件があって、紫外線を当てられた場合にかぎり。ダイヤモンド全体の約3分の1にこの性質が見られるのだとか。

ダイヤモンドのフルレッセンス。日本語に訳せば、蛍光性。ほたるの光ほどのほのかな輝き。ダイヤモンドの鑑定書には、たいていフルレッセンス(Fluorescenc)、または蛍光性という項目があります。判定は、Medium Blue、Weak Blue、Slightなど。そして何もない場合は、Noneもしくは「なし」と書かれている。

蛍光のあるなしは宝石の品質に関係があるわけではありません。ダイヤモンドは暗闇で紫外線を当てて鑑賞するものではないからです。ただし、鑑定する際には役立つ。石をすり替えられた場合「この石は蛍光性があるから、私のじゃない」と言えます。蛍光性は石の性質ですから、履歴書の趣味の欄みたい。「オペラ好き」でも「草野球のピッチャー」でも、仕事の能力とは関係ないのと同じです。だけど、「オペラ好き」の人とはおしゃべりがはずむけど、ピッチャーとは退屈という場合がある。要するに好みの問題。

ただし蛍光性が価値に影響しているダイヤモンドがあります。美しすぎるグリーン・ダイヤモンド。蛍光性のある石の中ばかりでなく、ダイヤ界全体のスター的な存在です。これは紫外線でなく、目に見える光に反応するので、誰の目にも緑色に見えるのです。

これらには名前があって、ひとつは「シャルトルーズ」。フランスの薬草から作った同名のリキュールに似た色み。もうひとつは、「グリーン・トランスミッター」。この石を通して、緑色の光の円錐(えんすい)が見えるという実験から命名されました。どちらも、あまりに珍しいダイヤモンドで、市場に出ることはありません。

またコレクター垂涎の的のカメレオン・ダイヤモンド――色が変わるのです――は、紫外線ランプに1分間当てたあと、15分以上はっきり発光するという。私はこれを持っているという日本人の男性に会ったことがありますが、世界に数個しか存在しないとのことでした。

黄色くて蛍光性のあるダイヤモンドは、多く産出したプレミア鉱山にちなんで「プレミア」、無色透明で蛍光性のあるダイヤモンドは、同じ意味でヤガースフォンテン鉱山の頭の部分をとり、「ヤガー」と呼ばれています。美しさとも価値とも関係ないけれど、蛍光性はダイヤモンドの内に潜んだ性格。自分だけが知っている、恋人の秘密のようで、持ち主の心はかきたてられます。


⑤結晶(参考リンク
雪の結晶は空からの手紙、と学者が言った。一瞬で消滅してしまうけれど。ダイヤモンドの結晶は、地の底からの永遠の恋文? 読んでも読んでも謎はつきない。自然界に存在する2000種ほどの鉱物のうち、その大部分が――地球を形成する岩石、宇宙から落ちてきた隕石、海辺の砂粒にいたるまで――結晶なのです。結晶とは、原子が一定の法則に基づいて規則正しく並んでいる、その一単位をさしています。

鉱物界に君臨するダイヤモンドは、とりわけ規則的な、みごとな結晶を持っているのです。ダイヤモンドの結晶をX線で調べると、18個の炭素原子が、それぞれきわめて短い距離で前後左右の原子と結びついている。この結合は強力で、ダイヤモンドが万物の中で最も硬いのはこのためです。

結晶系は等軸晶系。ひとつの結晶には、前後軸、左右軸、上下軸の3本があるのですが、これらの長さが等しく、その3本の結晶軸がお互い直角に交差しているのを、等軸晶系と呼びます。エメラルドの6方晶系、トパーズの斜方晶系に比べると、いちばんシンプルな結晶系です。ダイヤモンドの結晶にはいろいろな形がありますが、最も理想的なのは正8面体です。ピラミッドがふたつ底で貼りついたフォルムで、これを真横から見たのが、トランプのダイヤ柄。

カット技術のない時代、正8面体の原石は持って生まれたその鋭角的なデザインで、人々の崇敬の対象になりました。またカット技術が発達してみると、この形は研磨しやすく、輝きのよく出る宝石であるとわかりました。全宝石用の10~20%しかない正8面体の結晶はソーヤブルと呼ばれ、宝飾界で今も高い評価を得ています。他に立方体、サッカーボールみたいな5角12面体、星の形や三角形、ふたつの結晶がくっついた双子の結晶は双晶といいます。結晶の形は地の底からのなにかの暗号でしょうか。謎はつきないのです。


C――計測  個性のパズル4つのC

ダイヤモンドを客観的に評価する4つのC。その値の組み合わせこそ、その石だけの個性なのです。

①クラリティ(参考リンク
ダイヤモンドの特色である、透明度を計るのが、クラリティです。極上のダイヤモンドは、こわいほど純粋無垢。雪の女王の氷の宮殿みたいに、どこまでも透明。最高級のクラリティー「フローレス」のダイヤモンドは、一切のキズも内包物も持たず、この世の奇跡の完璧さです。

ただしフローレスのダイヤモンドは、一般人の手には届きません。博物館に展示されるか、一部のコレクターが所有しているのみです。その場合も、ルース(石のまま)として保管され、指輪などに加工されることはないようです。

少しでも人の手に触れると、キズ(フロー)がつき、フローレスのままでいることはできないからです。インターナリー・フローレス(IF)も同様です。エリザベス・テーラーがリチャード・バートンから贈られたテイラー・バートンと名づけられたダイヤモンドが、このクラスでした。しかし再び売りに出されたときは、VVS2に価値が下がっていたそうです。

宝石店で手に入る最高ランクは、VVSクラスです。専門家が10倍の顕微鏡をのぞいて、ほんのかすかに何かが見えるくらい。何かとは、鉱物の結晶などのインクルージョン(内包物)、または微細なわれめなど。VSクラスは、もう少し見えやすいですが、素人にはVVSとの見分けがつきません。SIクラスだと、素人でも顕微鏡をのぞくとわかる。Iクラスになると、肉眼でも欠陥がわかり、美しさもなく、振動や温度の急変などにあうと、そこからパカッと欠けてしまう危険もあります。

ほんの少しのインクルージョンやキズは、そのダイヤモンドのワンポイント。世界にたったひとつしかない個性を持っているとの見方もできます。数百万年もの間、地球の深部でダイヤモンドが生まれるプロセスで、まぎれこんだ鉱物の結晶、かすかなスキマだからです。いわば、その石のプロフィールを物語っている。

ダイヤモンド・コレクターの中には、キズや内包物の形や位置で、石を選ぶ人もいるようです。たとえばルビーの結晶がまぎれこんだ、その赤い点がかわいかったり、キズの形が天使の姿や鳥の羽、星の形に見えて、それが気に入ったり。肉眼では見ることのできない、ダイヤモンドのミステリアスな謎。好きな人の、触れてはいけない心の傷に似て。知ってしまうと虜になりそう。


②カラット(参考リンク
カラットとは、ダイヤモンドの重さの一単位。1カラットは、0.2グラムに相当します。ギリシャ時代の昔から、宝石はカラットで計られました。カラットの語源は、いなご豆(カロプ)。乾燥したこの豆の種子は、その昔、天秤の重りに使われていたのです。1カラットのダイヤモンドを採掘するには、4トントラック1台分の岩石を掘りおこさねばなりません。

カラット数があがればあがるほど、見つかる確率は低く、稀少価値は高くなります。ですから、10カラットのダイヤモンドは、同じ質の1カラットのダイヤモンドの10倍より、ずっとずーっと高価なのです。とはいえ同じ1カラットのダイヤモンドも、クラリティやカットのグレードにより、かなりの値段のひらきがあります。


③カラー(参考リンク
イアン・フレミング原作の007シリーズ『ダイヤモンドは永遠に』の冒頭に、「宝石の質」と題される一章があります。

「きみがいま見たやつは、最高級品で〈純蒼白〉というやつだ」 Mはボンドの前の大きなダイヤモンドを指さしていった。「つぎのこいつは〈純無色透明〉の10カラット。(中略)これもかなりいい宝石だが、〈蒼白〉の半値だ。かすかに黄色っぽい色が見えるだろう。その次に見せる〈ケイプもの〉は、ヤコピーの話では、ちょっと茶色がかってるんだそうだが、わしには、さっぱりわからん」

(イアン・フレミング作『007号の冒険』井上一夫訳 東京創元杜) 

英国秘密情報部員ジェームズ・ボンドが上司のMから受けたダイヤモンド・レッスン。このあと、ピンクやブルーのファンシー・カラー、そして工業用まで見せられて、講義は終了したのでした。

ダイヤモンドには、カラー・グレードがあるのです。無色透明のDカラーを頂点にZまで、アルファベットが進むほど、黄色み、茶色みが加算される。この色みは、ごくわずかに含まれる窒素のせいです。ダイヤモンドの成分は99.9%が炭素ですが、大海に沈む雨のひとしずくほど別の元素をとりこんでいる。黄色みが強くなるほどダイヤモンドの純粋さの価値が下がってしまうのです。

ただし、ファンシー・カラー・ダイヤモンドは別。同じ黄色でも、カナリー・イエローのダイヤモンドは珍重され、とても高価。窒素ではなく、ほう素を含んだブルー・ダイヤモンド、マンガンを含んだピンク・ダイヤモンドなどは、稀少価値が高く、とてつもない高値がつけられています。

ファンシー・カラーには、他にオレンジ、ブラウン、グリーンなども。褐色系のダイヤモンドは、昔はきらわれていましたが、最近はコーヒー・カラー、シャンパン・カラー、シナモン・カラーと呼ばれ、ことにヨーロッパで人気を博しています。日本でも流行に敏感な人に愛されているダイヤモンド。

ところで、先ほどのジェームズ・ボンド。小説の中に出てくる純蒼白は、D・Eカラーの英国式呼び方です。蒼といっても本当にブルーをおびているのではなく、青みを感じさせるほど無色、という意味。

トップ・クリスタルは、Iカラーあたり。専門家だとわずかに黄色みを感じとります。ケイプとは、南アフリカの鉱山の所在地名で、一般に黄色いダイヤモンドをさしている。グレードではMカラー以下で、素人でも色みが見てとれる。当然、価格も低く、指輪のひとつ石には向きません。

作者のイアン・フレミングは1908年生まれの英国人。ミュンヘンとジュネーブの大学を卒業の後、ロイター通信の記者、またタイムズ紙特派員として活躍した気鋭のジャーナリストでした。彼のダイヤモンドの知識は、仕事で世界を転々とする間に培ったもののようです。


④カット(参考リンク
もしもダイヤが野うさぎなら、カットはその耳くらいに大切です。あの星が爆発したかの強烈な輝きは、カットにより生まれるのです。ダイヤモンドの価値を計る4C。その中でもいちばん重要な、ダイヤモンドの心臓部分。そして4Cの中でカットだけが、人の手でどうにかできるCなのです。何も努力していない美人より、センスや人柄で自分を磨いたフツーの人のほうがステキに見えたりするのと同じ。

まだカット技術がなかった頃、ころんとしていてぼんやりした色みのダイヤモンドは、大して評価されない石でした。その硬さからインドでは護符として尊重されていたけれど、美しさではルビーやエメラルドに勝てなかったのです。ところが、人々はダイヤモンドをけずり始めました。最初は8面体の原石を形よく、左右対称にするために。そうすれば、装飾品として喜ばれたからです。八面体とは、ピラミッドが上下に貼りついた形で、トランプのダイヤ柄はここから生まれました。

職人たちは、自然にダイヤの粉でみがき始めました。またはダイヤのくずをしみこませた皮を使ったのです。15世紀には、ピラミッドの頂点をとがらせた「ポイント・カット」が誕生しました。当時、シャルル大胆王が所有した宝飾品「3人兄弟」の中のダイヤモンドが、ちょうどこのカットです。

その後、ダイヤのてっぺんを平らに切りとった「テーブル・カット」が登場。これは現在、「ステップ・カット」と呼ばれています。その頃にはまた、全体にばらのつぼみにも似たファセット(切り子面)を持つ「ローズ・カット」が一世を風靡しました。

18世紀、太陽王ルイ14世がベルサイユ宮殿にシャンデリアを取りつけたとき、ダイヤモンドの価値がぐんと高まりました。ろうそくの光がダイヤモンドを照らし、太陽の下で見るよりひときわ輝かしかったからです。

ローズ・カットをはじめ、さまざまなカットが浮かんでは消え、やがてブリリアント・カットが出現します。ブリリアント・カットをいつ、誰が編み出したかは、本当のところはっきりしません。歴代の宝石職人たちが少しずつ作り上げたこのカットは、いつの間にかブリリアント・カットと呼ばれるようになりました。

現在の形に完成したのは、1919年。研磨師であり、数学者でもあるマーセル・トルコウスキー氏が、屈折率を綿密に計算した結果、理想的な輝きを生む58面体を作り上げたのです。それは「アメリカン・アイデアル・カット(ヨーロッパではトルコウスキー・カット)」と呼ばれ、今もカットの質を計る基準とされています。アメリカン・アイデアル・カット自体は重量のロスが大きいので、いかにこれに近くカットし、またロスを少なくするかがカット技術なのです。美と経済のせめぎあい。

ある宝石学者がこう書いています。「よくカットされたダイヤモンドは、距離を変え、位置を変えても、同じように光を放つ」 これこそ、上質なダイヤモンドの条件。ひとくちに輝きというけれど、それには3種類があります。

「ブリリアンシー」 ダイヤモンドの、芯から爆発する、強いまぶしさ。
「ファイアー」 ダイヤモンドの中の、赤、緑、青……とちろちろ動く虹色の光。
「シンティレーション」 石の表面にまたたく、ナイフの破片にも似た、きらめき。

よいカット、よいダイヤモンドには、この3つの輝きが見られます。

ダイヤモンドの鑑定書では、フィニッシュまたはポリッシュ(研磨状態)の項目がカットの質を表している。また、ダイヤモンドは左右対称――がいちばん美しいのです。鑑定書のシンメトリー(対称性)の項目に「VERY GOOD」「EXCELLENT」などと書かれていたら、よいダイヤモンドです。


D――豪奢  宝石の重みに耐えかねるという至福

「王が動くと、ダイヤモンドが音をたてて鳴った」と、ルイ14世の回顧録を残した大貴族サン・シモン公爵が書いています。ルイ14世はまさに全身ダイヤモンドづくしの王でした。帽子には、伝説の涙型ダイヤモンド「サンシー」、ネクタイには後に「ホープ」と呼ばれる青ダイヤ、ネックレスには45個のダイヤモンドが使われており、その大部分は先の宰相マザランが集めた、有名なマザラン・ダイヤモンドでした。

参考リンク

他に、大粒のダイヤモンドをひとつずつ配した飾りボタンが123個、バッジ類も勲章も大粒のダイヤ7個を使った髪飾りもあって、その中のひとつは42カラットもありました。そのうえ、帯や靴下どめ、靴のバックル、サーベルなど目立たないところも宝石でちりばめられていました。先ほどのサン・シモンはこう続けています。「王が回廊に歩を進める……王の衣装は王室用ダイヤモンドの中でも最も美しいもので飾られている。時価1250万リーブルに達するだろう。王は宝石の重みに耐えかねるようだ」

ルイ14世は太陽王でした。彼自身が太陽を自らの象徴に選んだのですが、本当はそんな必要さえなかったことでしょう。燦然と光り輝く威風堂々とした王を見て、人々は誰に教わらずとも叫んだのですから。「この王はまさしく太陽そのものだ!」と。ルイ14世ほど豪奢を好み、それを実行に移した王は古今東西ふり返っても類を見ないのです。

ことに彼の建設したヴェルサイユ宮殿はみごとで、宮殿と庭園の工事には当時の美術家たちが総動員されました。そこでは日夜音楽が響き、芝居やバレエが催され、貴族たちはきらびやかな衣装と輝く宝石を身にまとって散策していました。夕暮れになると、庭園に掘られた大運河をゴンドラの群れが静かに下っていくのです。贅沢を愛した王は、賭博や旅行、狩猟などにも金を使い、貴族たちにもまた華やかな生活を勧めました。

彼がなぜこのような暮らしを愛したか。彼の生い立ちを見れば当然かもしれません。父はルイ13世、母はスペインの王女アンヌ・ドートリッシュ。ルイ14世は父の死後、たった5歳で即位した、生まれながらの王者だったのですから。贅沢の中で育ち、崇められることが宿命だった彼がダイヤモンドを愛し、派手好みだったとしてもなんの不思議もありません。

しかし、事はそんなに単純ではないようです。王の幼少期の生活は意外に不安定でした。当時のフランスには「フロンドの乱」と呼ばれる内乱が二度ほどあり、貴族も庶民も法律家も王権に反抗していました。王といえども、その地位はいつぐらつくかわからないものだったのです。

忘れもしない1649年1月5日、厳寒の早朝に、10歳の王はあたたかい夜具から無理やり連れ出され、パリ郊外にあるサンジェルマン城に逃げ出さねばなりませんでした。その城は、家具もろくになく、窓ガラスはわれ放題、麦わらの束を敷きつめベッドにするという粗末さで、幼い王は寒さとみじめさに耐えしのばねばなりませんでした。彼はこのとき思ったようです。大人になったら、誰にもゆるがせられる心配のない強い王権を確立するのだ、と。そのためには、権力を人々に見せつけなければならないのだ、と。

彼にはもうひとつ思い出すのもつらい体験がありました。幼くして王になったため、実権を握っていたのは母である摂政アンヌ・ドートリッシュと宰相マザランに他なりませんでした。そのため、恋をひとつあきらめたのです。10代のルイ14世は、マザランの姪のひとり、1つ年上のマリー・マンチーニと恋に落ちたのです。マザランの姪たちは美人ぞろいでマザリネットと呼ばれ、社交界の人気者でしたが、マリーはきれいなほうではありませんでした。

しかし知的で小説などにくわしく、やさしかったので、まわりを人に囲まれてはいるけれど実は孤独なルイ14世にとって、初めて出会った親身な話し相手だったのです。若い頃、もうひとつ自分に自信の持てなかった王に太陽王のイメージをかかげ、堂々たる権力者に仕立てたのは、このマリーだったようです。王はマリーと結婚すると宣言しましたが、母も宰相も大反対しました。この時期、フランス王の妃にふさわしいのは、大国の王女しか考えられなかったからです。

若い恋人たちの思惑をよそに、スペイン王女マリー・テレーズが王妃として迎えられました。それでもルイ14世はマリー・マンチーニを忘れられなかったのですが、宰相たちはあれこれ策を使い、マリーをイタリア貴族コロンナ伯のところへ嫁にやることにしてしまいます。彼女がイタリアへ向かう馬車に乗りこんだとき、王は見送りに出、扉の前で一礼しました。マリーは涙にくれて、そちらを見ようともしませんでした。

そして馬車は出ていき、恋は終わりました。このとき、王はもう一度心に誓ったのではないでしょうか。誰にも自分の邪魔をさせないためには、王者の強い権力が絶対に、どんなことがあっても必要なのだ、と。やがて宰相マザランの権勢の終わる日が来ました。1661年、彼は死を迎えたのです。22歳のルイ14世は二度と宰相をおかず、自ら親政をとると宣言しました。

待ちに待った彼の時代がやってきたのです。日頃おとなしかった王を知る国民は驚きましたが、そこに新たに見い出したのは、威風堂々たる美しき聡明な王でした。「私は気力が、勇気が高まってくるように感じた。私はこれまで知らなかったものを自分の中に見い出した。私は王であり、また王たるために生まれたように思えた」ルイ14世のことばです。

ベネツィアから来た大使は、こう伝えています。「王の姿態は美しさに満ち、豊かな上背で均整がとれた体躯であり……容色は威厳と気品とをたたえている」「王は敬虔(けいけん)で、素行正しく、公明である。王はたわむれにもひとを軽蔑したり、ひとの悪口を言われることはない」

統治者としても彼が理想的であったことは、国王に批判的だった、先の大貴族サン・シモンも書き留めていることでした。彼の贅沢好きは天性のものであると同時に、国王の絶対性を強め、貴族の力を弱めるための巧妙な政略でもあったのでしょう。

それはともかく、名実共に絶対的な国王となったルイ14世は、毎年そのダイヤモンド・コレクションを充実させていきました。彼はインドを旅行してきた商人タヴェルニエから大粒のダイヤ44個を買っていますが、そのひとつが例の有名なブルー・ダイヤモンド、持ち主を次々と不幸におとし入れるといわれる「ホープ」でした。彼はこのダイヤモンドを愛妾のモンテスパン侯爵夫人に贈ったけれど、夫人はたちまち王に嫌われてしまったといいます。

他のインド帰りの商人バズーからも42カラットの石を含む大粒ダイヤ19個、小粒ダイヤ131個を買い上げました。自分が身につけるだけでなく、お気に入りの将軍、貴族、使用人、そして次々に現れた愛人たちにも宝石の雨を降らせました。しまり屋の大蔵大臣コルベールは日夜この出費を嘆き、ついに死の床で絶望的に叫んだそうです。「王のおかげでわしは地獄ゆきだ」と。


E――姫君  わがままが宿命

ある意味では、ダイヤモンドが、王妃を断頭台へと送ったのです。王妃は何よりもダイヤモンドを愛してたというのに。オーストリア皇女として生まれ、ルイ16世妃として全ヨーロッパの美の象徴となり、ついには寡婦カペーとして命を落としたマリー・アントワネット。15歳で皇太子妃に迎えられた彼女は輝くばかりに愛くるしく「立てば美の立像、動けば生きた優雅」と評され、彼女がダンスを間違えても、音楽のほうが間違えたのだとまわりに思わせたといいます。

気まぐれ、浪費家、無責任と彼女を悪く言う人は多いけれど、マリー・アントワネットは姫君として生まれた、その運命を正直に生きすぎただけではなかったでしょうか。王妃は宝石が大好きでした。ことにダイヤと真珠! ダイヤモンドはブリリアント・カットが発明されたばかりで、キャンドルの炎を映して輝き、王侯貴族を激しく虜にした頃でした。

マリー・アントワネットは先代のルイ15世妃マリア・レスチンスカが身につけたような重々しい宝飾品は好みませんでした。彼女はまさにロココの女王でした。軽やかでシンプルなジュエリーがお気に入りで、ときにはピンやクリップにダイヤモンドをつけて髪にさしたり、ドレスにちりばめたりと、今想像してもセンスのよいつけ方をしていたのです。

王妃が18歳のとき、出入りのドイツ人宝石商ベーマーとバサンジュがみごとなダイヤモンドの頸飾りを持参しました。大粒のダイヤモンドばかりをつなげた、目もくらむ逸品です。それはとても美しかったけれど、160万リーブルという高値だったので、断りました。このところ浪費がすぎたため、ルイ16世が許可を出さなかったからです。

参考リンク

これが世にいう「頸飾り事件」の発端です。このダイヤモンドが数年後、歴史上に浮かびあがり、王室の運命を狂わせるのです。登場人物は、名うての美人詐欺師バロア・ド・ラモット夫人とお人好しのカモ、ロアン大司教でした。バロア・ド・ラモット夫人は貴族の称号を持っていますが、浮浪者のような生まれでした。しかし没落貴族の落とし胤という怪しげな経歴を持っていました。

その経歴と清楚な美貌、悪がしこい頭を武器にラモット大尉と結婚、いつの間にか貴族の称号も手に入れて、けっこうな暮らしにありついていたのです。この美しき無法者のターゲットとなったのが、生粋の名門貴族、元オーストリア大使でもあったロアン大司教でした。彼の悩みはマリー・アントワネットにきらわれていることでした。

バロア・ド・ラモット夫人は王妃の親友だと偽って司教に近づき、王妃に気に入られるには方策があると持ちかけます。王妃の欲しがっている例のダイヤモンドの代金を立て替えてはどうかと提案したのです。ラモット夫人は大胆にもニセの王妃を大司教にかいま見せたりしたので、ロアンはかんたんにだまされてしまいました。

女詐欺師は宝石商から頸飾りを受けとると、ロアンが代金を支払うまえに、ダイヤモンドをバラバラにし、ロンドンで売りさばいてしまいます。ここで手違いが生じました。宝石商が勘ちがいして、請求書を王妃のほうへ送ったのです。わけのわからない王妃は、大嫌いなロアンがからんだ話だと知って怒り狂います。ロアンのほうもなんだかわけがわかりません。しかも、かんじんのダイヤモンドは影も形もないのです。

マリー・アントワネットは、こんな事件など無視してしまえばよかったのです。しかし王妃はムキになり、ラモット夫人は終身刑、ロアン大司教は追放の刑に処せられました。ここで世論が司教のほうに傾いたのです。いい加減で享楽的だけど(このへんはけっこう王妃に似ているのです)、人のいい大司教が悪事を働くわけはない。あんがい王妃がダイヤモンドを手に入れ、知らん顔してるのではないのかと。

さらに事態は悪化。ラモット夫人が脱獄し、ニセの回顧録を出版。王妃とロアンは密通していた、王妃は同性愛で自分に言いよったなどあることないこと書きたてました。清楚な人妻が無実の罪に――大衆はラモット夫人のおとなしそうな顔だち、図々しいほどの演技力にだまされ、スキャンダルをおもしろがりました。

マリー・アントワネットはこのとき30歳。美しいさかりの驕慢(きょうまん)な王妃は人々に悪女のレッテルをはられてしまいます。いい子のふりをしなかった、正直すぎたのが仇になりました。王妃も演技をして、私は被害者と泣きくずれればよかったのだけれど。彼女のプライドがそれを許しませんでした。

噂は広がり、王室の威信は地に落ちました。以後、革命の足音は加速度を増し、王妃が斬首されたのは、それからたった8年後のことでした。斬首される際のマリー・アントワネットは、堂々と威厳があり、まさしく真の王妃だったということです。これが、マリー・アントワネットが持つことのなかったダイヤモンドのお話です。

マリー・アントワネット・ブルー。こちらは、マリー・アントワネットが持っていたダイヤモンドのお話です。グレーがかったブルーのハート・シェイプ。5.46カラットの指輪。オーストリアからお輿入れするとき、持参したダイヤモンドでした。1781年、王室の宝飾品はすべて国有宝物庫に預けられましたが、このダイヤモンドは私物として、王妃の手もとに残されました。

処刑される日がせまったとき、彼女はこの指輪を最後までそばから離れずにいてくれたポーランド公女ルポミスカに与えました。革命の嵐の中、指輪はルポミスカと共にポーランドに渡り、その子孫に伝わりました。1955年、ヴェルサイユ宮殿で開かれた「オーストリア皇女、フランス皇太子妃、王妃マリー・アントワネット」展に、この指輪は出品されています。無邪気な輝きのブルー・ダイヤモンドは、170年の時を経て、もとの持ち主マリー・アントワネットのもとに帰ってきたのです。


F――蒐集(しゅうしゅう) エゴイストという名の美学

フランスが前代未聞の革命の嵐に揺れている同じ頃、海をへだてたイギリスに「ダイヤモンドの女王」と呼ばれている王妃がいました。ハノーバー王家の3代目、ジョージ3世の妻であるシャーロット王妃がその人です。彼女はダイヤモンドに目がなく、膨大なコレクションをしていることで有名でした。というより政局に影響を与えることもなかったので、「ダイヤモンドが好き」という以外、さほど情報も伝わっていないのです。

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1761年、メクレンブルグ・ストレリッツ家の王女だったシャーロットは、ジョージ3世と結婚するにあたり、数々のダイヤモンドを贈られています。中でも上質だったのは「カンバーランド」と名づけられた三角形のダイヤモンドでした。このダイヤモンドは、ジョージ3世の伯父に当たるカンバーランド公爵の遺品でした。カンバーランド公は、勇敢な将校として人気の高かった人でした。父王ジョージ2世と戦場におもむきました。そのディッケンゲンの戦いは英国王自身が戦った最後の戦争として歴史に残っています。

1746年には、その戦いぶりのみごとさから公はロンドンの名誉市民に任命され、みごとなダイヤモンドを贈られたといいます。女性と狩りと賭けごとが好きで、有名なアスコット競馬場を建設したのも彼でした。公はまたジョージ2世にも母のキャロライン王妃にも気に入られていたので「カンバーランド」というダイヤモンドはそのどちらかから受け継いだものだといわれています。

この33カラットのダイヤモンドを贈られたことが、まだ若かったシャーロットの目をひらかせました。彼女には、ダイヤモンドのない人生など、考えられないものになりました。王妃とはいえ平凡な女性だったシャーロットが、ダイヤモンドだけには貧欲になりました。それ以来、夫のジョージ3世から、臣下から、また属国であるインドの太守たちから、すばらしいダイヤモンドがシャーロットにふりそそがれることになったのです。

こうしてできあがった王妃のダイヤモンド・コレクションの中で、最も有名なのが「アルコット」と呼ばれるふた粒のペア・シェイプでした。ひと粒が23カラット、もうひと粒が34カラット。どちらも透明度がすばらしく、王冠にセットされたり、そこからはずしてイヤリングに使われたりしました。これは1777年、インド、マドラス近郊にあるアルコットという国の太守、アジム・ウド・ダウラから贈られたものです。1801年、彼の国は英領になりました。ダイヤモンドと国土、「アルコット」はどちらもイギリス王室の所属になったというわけです。

政局に影響を与えなかったとはいえ、王妃のダイヤモンド好みをめぐり、こんな事件も起こっています。事件の主役となったのは、王妃白身ではなく家臣。初代インド総督、ウォーレン・ヘースティングスでした。出世を重ねて総督の地位をつかんだ彼はなかなかの業績をあげたのですが、帰国後、おかしなスキャンダルに巻きこまれました。彼がインド産の101カラットもあるダイヤモンドを、賄賂として国王に献上したという噂です。

王妃はダイヤモンドに目がないのですから国王自身も喜びます。だからこれは大いにあり得る話です。ヘースティングスは糾弾されました。噂は民衆にまで広がり、奇術師の「偉大な石食い」と題したポスターをパロディーにして、国王がダイヤモンドを口にくわえている風刺画も出まわりました。そのタイトルは「最も偉大な石食い」ですって。

実際に、101カラットのダイヤモンドはあったのです。確かに国王の手に届きました。薄もやの向こうに透ける太陽の輝きのように、えもいわれぬ光を放つラウンド・ブリリアント・カット。これを国王に贈ったのは、インドのある強国の太守、ニザム・アリ・カウンでした。ヘースティングスは、仕事がら単に取りつぎを頼まれただけでした。ところがニザムの手紙とダイヤモンドを乗せた船、ヒンチンブルック号が難破。

無事にヘースティングスの手に渡ったものの、手紙はもう判読不能で、ニザムが王に贈ったのだといういきさつを証明するものもなくなってしまいました。ウェストミンスターホールにおいて、ヘースティングスは弾劾裁判を受け、それは7年3ヵ月の長きにわたりました。結局は無罪判決が出ましたが、ヘースティングスは職も財産も失い、この件で受けた被害は大変なものでした。巻きこまれたことで、彼の名がついたダイヤモンド「ヘースティングス」も、結局はシャーロット王妃のコレクションに加わっています。

英国の「ダイヤモンドの女王」は、フランスのダイヤモンド好きな王妃とはちがい、平和のうちに、天寿を全うすることができました。後世に、とくに影響を与えることのなかった王妃ですが、たったひとつだけこの世に残したものがあります。結婚10年目を祝うエタニティ・リング。その前身を発明したのは彼女でした。貴重な指輪を落とさぬよう(キープするため)小粒のダイヤモンドをぐるりとちりばめ、キーパー・リングと名づけたのです。

ダイヤモンドを愛する気持ちがこんなリングを誕生させたにちがいありません。その指輪は現在もウィンザー城に残っています。表面のダイヤモンドは銀台にセットされ、指に接する裏側はゴールドになっています。銀はダイヤモンドの白さをそこなわないため、ゴールドは指を汚さないための工夫なのです。このキーパー・リングがエタニティ・リングとなり、現代のダイヤモンド好きな女性たちの指を飾っています。


G――盗難  ダイヤモンドは盗まれる。あるいは盗まれない。どっち?

ダイヤモンドと宝石泥棒は切っても切れない間柄。手品師とトランプ、王女と道化師みたいな関係なのです。はるか昔、盗人は神像の額にはめこまれたダイヤモンドを盗み、時代が下っては、ダイヤモンドを運ぶ使いの者を殺して盗み、奴隷の鉱夫はふくらはぎを切り裂いて見つけたダイヤを埋めこんで盗み、最近は金庫をこじあけて盗み、店員をホールドアップさせ、または夜中にシャッターを破って盗み、そして口先三寸の詐欺で盗むという手合も。

被害にあったダイヤモンドは、売りさばかれ、大きい粒のものは分割され、どこへ消えたかわかりません。中にはフランス王室所有の名宝「リージェント」のように、盗賊団が仲間われし、シャンゼリゼ通りの隠し場所から発見されたこともありました。現存している名宝は皆、そうした奇跡をおびたダイヤモンドたちなのです。

世界でいちばん大きなダイヤモンド「カリナン」の場合はどうだったでしょうか。この石は、1905年1月26日、南アフリカのプレミア鉱山で発見されました。3106カラットの大きさ。男性でも片手では持てないほどです。それまで発見された最大のダイヤモンド「エクセルシオル」が995.2カラットですから、ゆうにその3倍以上に当たるわけです。

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見つけた鉱夫からこれを手渡された鉱山監督官ウェルズは「これがダイヤモンドなものか」と叫んで、窓から放り投げたといいます。しかしウェルズは気をとり直し、重さを計ると鉱山のオーナーに電報を送りました。そのトーマス・カリナンは知らせを受けたとき、友人を招いての夕食の最中でした。電報を読んでも驚きもせず「きっと水晶の間違いだと思う」とつぶやいたのみでした。しかしそれは正真正銘のダイヤモンドでした。オーナーの名をとって「カリナン」と名づけられました。

この巨大なダイヤモンドは一般に公開するため、ヨハネスブルグの銀行に展示された後、英国王室に送られることになりました。さて、どのように送るか。それが問題です。石の噂は広まり、腕ききの宝石泥棒たちが手ぐすねひいてチャンスをうかがっているのです。人が運べば、殺される。今まで大形ダイヤには、そんな事件がいくつも起きています。たとえば、フランス国王と英国王の間を行き来した涙型の名ダイヤモンド「サンシー」がそうでした。

南ア政府は、ある方法を考えました。郵便。ダイヤモンドは厳重に封をされ、書留にして、高額の保険がかけられる。運ぶ郵便船の船長室の金庫にしまわれ、数人の刑事が警護に当たりました。それなのに……一時間後、盗まれてしまう。しばらくして、ロンドンのある銀行員宅に、普通小包が届きました。中身は、南アフリカのさる郵便局員の妻の帽子箱で、あけると大きなダイヤモンドが輝いていました。初めのダイヤモンドは、おとりのニセモノだったのです。政府の知恵が盗賊に勝った。これが「カリナン」をめぐる第1幕。

2幕目が始まる。「カリナン」はあまりに大きすぎるので、英王室はアムステルダムの一流ダイヤモンド・カッター、I・J・アッシャー社に分割を依頼することにしました。今度はオランダまで運ばねばなりません。またしても普通小包が送られ、盗賊も今度はぬかりなくそれを……。ところが「カリナン」は別のルートをたどっていました。アッシャー家の者3人がロンドンへ赴き、そのうちのひとりのポケットに放りこまれ、ひとりの護衛もなく、ドーバーからカレーへ船で行くルートを選び、そこから汽車でアムステルダムへ戻ったのです。ダイヤモンドは今度も無キズで国境を越え、アッシャー家にたどりつきました。

第3幕の始まり。研磨には職人3人が14時間働き続けて、8ヵ月かかったということです。夜は盗難を恐れ、4人の警官が警備する貴重品室に保管され、30分ごとに安全をチェックされました。鉄とコンクリートでできた貴重品室の壁は68.5センチの厚さがあり、ドアの錠前は会社のトップ3人だけしか数字の組み合わせを知らされていませんでした。部屋の中にはマホガニーの食器棚があり、その裏に金庫が隠されていましたが、その扉は200ミリの厚さの鋼鉄製でした。8ヵ月後、カリナンは9つのダイヤモンドに分割されました。そして、またアッシャー家の手で直々ロンドンに運ばれ、国王エドワード7世の手もとに届いたというわけです。

幕はおりました。そのカリナンたちは、今、どこにあるのでしょうか。中でも最大のカリナン1号は英王室の王笏(おうしゃく)に、2番目に大きいカリナン2号は英国戴冠式用王冠に飾られています。他の3~9号のカリナンも健在。以上、泥棒に盗まれなかったダイヤモンドのお話でした。こんなのも面白いでしょ?


H――伝説  スターだからお話がいっぱい

古今東西に伝わる、数々のダイヤモンド・ストーリー。その話が奇妙であればあるほど、恐ろしければ恐ろしいほど、美しければ美しいほど、人々のダイヤモンドに寄せた思いの熱さが感じられるのです。

<ダイヤモンドの谷>
最も有名な伝説です。現在の中部ロシアに当たるスキタイの砂漠に、その谷はありました。周囲を剣の切っ先のようにとがった岩山でぐるりと囲まれ、その谷は深く、深く、えぐれているのです。でも谷底はミルク色の霧につつまれ、ちらとも見ることができません。しかしここには、大きなダイヤモンドがザクザクと転がっているのです。

近隣の王たちは屈強な家来を選んで、ダイヤを取ってくるようにと谷に向かわせました。しかし彼らのほとんどが、岩山で足をすべらし、帰らぬ人となってしまったのです。ところが、ある家来がトリックを思いつきました。羊を殺し、皮をはいでバラバラにした生肉を次々と谷底に投げ落とすのです。すると、どこからか大鷲が現れ、霧をさいて急降下。肉をつかんで巣へ持ち帰ります。その肉には、とがったダイヤがいくつもつき刺さっていました。

家来は鷲の留守に巣を盗み、いっしょに運ばれたダイヤモンドを集めればよい、というわけです。マルコ・ポーロはこの話の源をインドだと書いていますが、実際はギリシャかマケドニアあたりのようです。この伝説は各地へ伝わりました。ペルシャを経て、ヨーロッパへ。また中国・梁王朝の王子の出した回想録や、最古のアラブの鉱物学の本にも書き留められています。


<アレキサンダー大王>
「ダイヤモンドの谷」の伝説には、魅力的なヴァリエーションがいくつもあります。そのひとつが、英雄アレキサンダー大王にかかわるお話。紀元前327年、彼がインド侵略をこころみたときのこと。バクトリア王国(現在のアフガニスタンあたり)を征服したアレキサンダー大王は、その足でソジアナ(サマルカンドあたり)を通り過ぎ、インドへと向かいます。しかし国境付近で勇敢な山岳民族の抵抗にあい、一行は進軍をあきらめて、インダス川を下っていきました。

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このとき、大王が谷間を訪れたといわれています。彼が勇敢にも谷底にたどりつくと、そこには不気味にとぐろを巻いた無数の蛇が! この蛇にニラまれると、人間の命はその瞬間にフッとんでしまいます。どうしたものか。アレキサンダーはよい手を思いつきました。大きな鏡を蛇どもに向かって見せつけたのです。蛇は一瞬、鏡の中の自分の眼を見つめ、あっという間に硬直し、とうとう死んでしまいました。あとは、ダイヤモンドを集めるだけでよかったのです。


<千一夜物語>
「ダイヤモンドの谷」の伝説は紀元6~10世紀のアラビアにも伝わり、すばらしい文学に昇華されました。有名な「千一夜物語」その中でも誰もが知ってる「船乗りシンドバッドの冒険」です。主人公は7度の航海をするのですが、第2の航海中に無人島に取り残され、巨鳥ロクの足につかまり、脱出します。巨鳥ロクと共に着地したのが「ダイヤモンドの谷」でした。

「私はひどく高い山々に四方を囲まれた広い深い谷間に運ばれていて、その山々の高いことといったら、眼で測ろうとして仰むいたら、ターバンが後ろの地上に転がり落ちたほどであった」

(『千一夜物語(5)』豊島与志雄・渡辺一夫・佐藤正彰・岡部正孝訳 岩波文庫 以下同)

と臨場感あふれる描写をしています。それからこの谷を調べてみると、谷は全部ダイヤモンドを含む原石でできているのでした。

「身のまわり、いたるところ、地面は山から剥がれ落ちた大小のダイヤモンドで埋まって、ある場所には人間の丈ほど堆高く積み重なっていた」

喜びもつかの間、シンドバッドは恐ろしい光景を眼にします。ダイヤモンドの岩石を守る数しれぬ黒い大蛇たち。

「棕櫚(シュロ)の木よりも太く大きく、1匹1匹がきっと大きな象でも呑み込むことのできそうなしろものだった」

シンドバッドは夜の間、洞穴に隠れていました。朝になり、外にはい出してみると、「いきなり、鼻先2、3歩のところに、大きな四ツ切りにした肉の塊が落ちて来て、地響き立てて地面にへばりついたのであった」 これはダイヤモンドを採る商人たちの計略の羊肉だと、シンドバッドは気づきます。彼はさっそくいちばん大きく、いちばんみごとなダイヤモンドを持てるだけ体につけ、ターバンの布をほどいて、自分と肉を結びつけます。

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すると、1羽のロクがやってきて、恐ろしい爪に肉もろともつかまれ、1本の羽毛のように空中に持ち上げられるのを感じました。そして、またたく間に谷を離れ、山の頂上の、ロクの巣にボトンと落とされました。そこへ商人が近づいてきて、ロクをおどし、シンドバッドは地上に戻ることができたのです。2、3の上質のダイヤモンドをあげると、商人は大喜び。大金持ちになったシンドバッドは、売らなかったいちばんみごとな数々のダイヤモンドをたずさえて、自分の町に帰ったのでした。


<夜と昼>
中世からルネサンスにかけてのヨーロッパ人にとって、ダイヤモンドは人が住むか、魔物が住むかさえ定かではない、遠い異国から運ばれてくる不思議な鉱物と思われていました。そのせいか、こんな伝説が生まれました。

ダイヤモンドは、1年の半分が夜で、半分が昼の国で採れるのだ、というのです。そこでは猛毒のコブラがダイヤモンドを守っているのですが、とがった結晶の上を通り過ぎるたびに体が傷つく。傷から流れ出る毒液が石にしみこむ。そのため、ダイヤモンドは微量なら解毒剤になるけれど、量が多ければ人を殺すこともできる毒薬になったのだ、というものです。


<毒薬>
ダイヤモンドの粉は毒薬だ、という伝説は、世間に広く流布しています。1538年、イタリア・フィレンツェのチェリーニという彫金家が、その敵であったP・L・ファルネーゼに、サラダに混ぜたダイヤモンドの粉で毒殺されかけました。結果的に死なずにすんだのは、ダイヤを粉にすることを頼まれた宝石師が貧乏だったおかげです。彼がダイヤをねこばばしたくなり、代わりに水晶の粉をファルネーゼに渡したので、殺人は失敗したというわけです。

トルコの回教王ジュゼット2世(1447~1512)は、その息子セリムによって、ダイヤモンドの粉で毒殺されたそうです。また、化学者で錬金術にもくわしいパラケルスス(1493~1541)もダイヤの粉で殺されました。1613年、ロンドン塔にとじこめられたサー・トーマス・オーバービユリィも同様とのこと。占星術師と錬金術師を取り巻きにしていたカトリーヌ・ド・メジチ(1519~89)は、自分の邪魔になる者を消すため、ダイヤモンドの粉を何度も使ったといわれています。


<牡山羊の血>
古代ローマの著述家プリニウスによると、卑しい行為や悪魔の象徴と思われている牡山羊に、不屈の力の化身であるはずのダイヤモンドが負ける、とされています。それが自然界の法則とのこと。いかなる力にも屈しないダイヤモンドも、牡山羊の血の作用で破壊できる。しかしそれは新鮮であたたかい血に浸し、その後さんざん叩かれればの話。それもいちばん硬い金槌以外では打ち砕けない、といいます。


<恋>
リムニルドという王女と猟師ハインドが恋をしました。国王はそれを知り、当然のこと、怒り狂います。ハインドは国外に逃亡する決心をしました。別れのとき、王女はハインドに7つのダイヤのついた指輪を与えました。ある日、逃亡先のハインドが指輪を見ると、ダイヤモンドが青ざめ、輝きもすっかり消えています。

言い伝えによると、ダイヤが青ざめるのは、愛人が持ち主を裏切るときです。ハインドは急いで帰国しました。案の定、王女には縁談が持ち上がり、その相手と結婚する寸前でした。ハインドはすったもんだの末、王女の結婚を阻止し、国王にも気に入られて、彼女と結婚することができた、ということです。めでたし。めでたし。


<アーサー王>
中世騎士文学の代表作が『アーサー王物語』。英雄アーサー王と彼に仕える有能な騎士たちが幻想的なお話をくりひろげます。そのアーサー王にまつわる、こんなダイヤモンド伝説も。アーサー王によって毎年開催される馬上試合がありました。ある殺された騎士の王冠にあった9つのダイヤモンドをひとつずつ、向こう9年間の賞品としています。

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優勝者は、美男の上に最も屈強な騎士ランスロット。彼は9年間、連続して勝利し、9つのダイヤモンドを恋人ギネヴィアに贈りました。彼女は実はアーサー王の王妃なのですが、ふたりは激しくも強い絆で結ばれ、離れることができないのです。ある日、ギネヴィアはランスロットが他の女と愛し合ってるのでは、と嫉妬します。そして9つのダイヤモンドを全部川に投げ捨てた、ということです。


<男と女>
「ダイヤモンドには男性と女性があって、空からの霧で成長します。彼らは小粒の子を産んで数が増え、1年中、育っています。私は実験しました。小形の岩の中にあるダイヤモンドを飼育したのです。時に5月の露を与えると、それらは毎年大きくなり、同時に彼らの子どもも大きくなるのです」

インドの伝説を研究していた、イギリス人の学者がこう書き残しています。

楽しい話! 私たちのダイヤモンドも育てて大粒にしてみたくなります。ヒンドゥー教の伝説によれば、男性・女性の他に中性のダイヤモンドもあるといいます。男性のダイヤモンドは、最上で薬効にすぐれている。女性のダイヤは女性が持つと幸せになれる。中性のは、活力を破壊し、虚弱と失望をもたらす、のですって。


<カースト制度>
ダイヤモンドにも、身分があるのです。インドはカースト制度の国。人間だけでなく、ダイヤモンドまでが、その掟に縛られていたとか。

「バラモン」は人間でいえば僧侶階級。白か無色のダイヤモンドが、これに当たります。このダイヤは、持ち主の一家に権力、友人、富、地位、幸運を運ぶ、また神々の愛護を受ける石です。「クシャトリア」は人間でいえば武士階級。赤いダイヤモンドが、これに当たります。上質の石は、不変の成功と権利の取得、また敵の破滅をもたらす。また、早死にを防ぎ、若さを保つ石です。

「ヴァイシャ」は人間でいえば庶民階級。黄色いダイヤモンドが、これに当たります。最良のこの石は、すべての努力に成功を約束します。また名声と知恵と芸術の熟達が手に入ります。「スードラ」は人間でいえば奴隷階級。濃いグレーやダークトーンの石が、これに当たります。極上のこの石は、持ち主に慈悲心を持たせ、富裕になれます。またその粉は万能薬になります。

これらの人々の誰もがダイヤモンドを買えたとは、ちょっと疑わしい話です。しかしクシャトリアたちは戦争に際し、赤いダイヤを現物支給されています。おそらく、当時はダイヤモンドに似た石はすべてダイヤと呼ばれていたのでしょう。赤いダイヤはスピネルではないか、と思われます。ダークトーンのは磁鉄鉱でしょうか。本物のダイヤモンドは「バラモン」だけかもしれません。


<水の底>
古代中国の呪術告『抱朴子』にもダイヤモンドが登場します。「金剛石は南ヴェトナムが産地で水底の石の上に生じ、鍾乳石に似ている。金槌でたたいてもカケラひとつ取れないほど硬いが、カモシカの角でたたくと、たちまち砕けて水に溶けてしまう」と。


<そして江戸時代>
ダイヤモンドなど誰も見たことがないはずの江戸時代、ある文献に書かれているのです。「金剛石はガラスに似て色は黒、形は火打ち石に似て稜があり、はなはだ硬く、玉石や磁器を彫刻したり、孔をあけたりするのに使うものがあり、オランダからきたものである」 思ったより正確……ではないでしょうか。


ダイヤモンドA to Z(中)へ続く


本ページには岩田裕子著『ダイヤモンドA to Z やさしくて残酷な魂』の文章(A~H)を掲載。