妖精のレッスン(下)

妖精のレッスンーじぶんを見つける50のレシピ 40-50

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40.インテリアの変身 フランス映画のヒロインみたい

<ジジのひとりごと> インテリア雑誌をのぞいていたほのかが、「こんな家に住みたい」って、見せてくれた写真――ミラノの富豪の大邸宅だった。アタシの昔の恋人がソファに坐ってたわ。見覚えのある贅沢な家具が、レモンイエローの壁のまえで、花のようにあでやかだった。昔はブルーの壁だったはず。「この部屋も、ペンキ塗ったら」って言ったの。

<ほのかのひとりごと> 「ペンキ塗れば」って言われて、できるかもしれない、と思ったの。昔から「小公女」の住む屋根裏部屋にあこがれてた。あたしの想像するその部屋は、絶対ピンクの壁なの。大家さんに電話したら、長男の大学生が出た。あの子、あたしに気があるみたいなの。ちょっと色っぽく「ね、お願い!」って頼んだら、あたふたしちゃって、親のOK取りつけてくれた。築何十年の古い部屋だし。

<ジジのひとりごと> ほのかといっしょにペンキと刷毛を買いこんだ。ほのかがピンクなので、アタシは黒を塗ることにしたの。柱やドアの裏側、洗濯機もZライトもゴミ箱も猫のしっぽも黒!(これはまちがえて塗っちゃったんだけど)

<ほのかのひとりごと> 脚たつで天井もピンクに塗ったの。ペンキがぽったり頭に落ちて、シャンプーしてもとれず、しばらく桃髪のヒトでした。

<ジジのひとりごと> ほのかのこと笑ってたら、アタシの羽根にも黒がついちゃった。ほのかはペンキつけてても、ぼおっとしたキャラクターだからいいけど、ジジみたいなモード系は困っちゃう。

<ほのかのひとりごと> 窓にはピンクのカフェカーテンを手作り。

<ジジのひとりごと> 床には黒と白のPタイルを市松模様に並べて。

<ほのかのひとりごと> デュフィのB全ポスターをチェストの上に貼って、完成。パリの小粋なアパルトマンね。

<ジジのひとりごと> バスルームを忘れてるわ。ペパーミントグリーンのスプレーで、壁全体にシュワーッと塗ったの。ニューヨークの塀にある落書き。あんな感じのアナーキー!

<ほのかのひとりごと> めざめると、まっさきに、ピンクが目に入る。カーテンを通し、薄紅色の光が部屋もあたしも染めている。窓をあければ、空の薄青とピンクの壁の幸福な出合い。テラスでコーヒー飲んでると、フランス映画のヒロインみたい。そうそ、大家さんちの男の子ったら、ドアあけた途端、びっくりして目が少女漫画になっちゃった。

<ジジのひとりごと> 夜、帰ると、ピンク。これってなかなかドラマティック。バスルームのドアをあけると、ピンクとペパーミントグリーンのお菓子色。ここはニューヨークのロフトかしら。シェリー片手に、昔の恋人たちのこと、思い出してみる。ミラノの富豪を招待してあげようかな。


41.ピンク色のガーデン・パーティー どこかにこの色を身につけてくるのがルール

さまざまなピンクが飛びかうピンク・パーティーが、今にも始まろうとしています。ゲストは、ピンクの部屋を見たがっている人間たちと妖精たち、すべて(妖精は人間のフリして出席します)。どこかにこの色を身につけてくるのがルールなので、ミスミ・アリはピンクトパーズのピアス、冬丘雪子さんは薔薇色のストール、カリカ・ベルは、桜吹雪のみごとな着物でやってきました。ジジはピンクの目をしています(コンタクトだと説明してるけど、実は魔法)。ほのかは、黒とピンクのチェックのワンピースに、同じピンクのレースの手袋。

アペリティフは、ピンク色の部屋でサーブされました。「50年代のパリのアパルトマンみたい」 また「70年代のニューヨークみたい」など、出席者たちの意見はまちまちでした。食事はテラスのテーブルに並べられました。このテラスは、子どもなら鬼ごっこができそうなほど広いのです。ハーブの鉢や南国の植物が置かれ、ちょっとしたガーデンパーティーの雰囲気です。テーブルクロスとカトラリーは、空の色と同じトルコブルー。ピンクの料理が、どれほどひきたつことか。今日のメニューは、こんなふうなのです。

アペリティフ(食前酒)
〈シャンパン・フランボアーズ〉
シャンパンに、きいちごのリキュール“フランボアーズ”をそそぎ、さっと混ぜるだけ。すみれをおびた淡いピンクのお酒です。マリー・ローランサンの好きな色。

前菜〈オレンジ・ピンクのやめられないディップ〉
ほぐしたタラコにサワークリームをさっくり混ぜこむ。温野菜やガーリックトーストにちょっとつけて。オレンジ・ピンクのキュートなディップ。

サラダ〈恋のはじめのサーモンピンク〉
千切りした大根と、ほぐした鮭缶をドッキング。そこにカッテージチーズと、小口切りのあさつきをふりかけ、ドレッシングで軽くあえます。白いはずの大根が、ほほそめた少女のピンクに。

スープ〈薔薇色のクール・ビューティ〉
ボールにヨーグルト、トマトジュース、フロストシュガー、塩少々を合わせて、泡立て器でなめらかに混ぜる。冷蔵庫でキーンと冷やし、冷たいお皿にサーブします。薔薇の花びら、ぱらりとちらして。

ごはん〈桜の精のほほえみ〉
たっぷりの寿司ごはんに、桜の塩づけの花びらを一枚ずつ塩を落として混ぜる。春の雪にちらされた、桜の精たちの舞いのよう。箸置きは、桜の小枝です。

デザート〈桃色吐息のゼリー〉
お湯で溶かしたゼラチンに赤ワインとピーチジュースを少しずつ落とします。型に半分入れて固め、そのうえに花びらをひとひら。残りをそそぎ、固まったら、お皿に出して。花びらが宙に浮かんで、夢のワンシーン。

お茶〈吸血鬼のローズティー〉
極上の紅茶に、乾燥したピンクの薔薇の花びらを少し混ぜこむ。沸騰したお湯をそそぎ、よくむらしてからカップへ。ティーローズという薔薇があるけれど、そんな色みの複雑なピンク。吸血鬼はこのお茶を飲むので、年をとらないとか。

やがて空が黄みがかった淡いピンクに染まり、パーティーはおひらきとなりました。家路につくゲストたちも、ほっとして夕焼けを眺めているホステスたちも、自分が前より元気になって、何だか幸せなのに気づきました。ピンクには、そんな力がひそんでいる。色彩心理の本をのぞかなくたって、そんなこと、ほのかもジジも女のひとなら誰だって知っているのです。そうでしょ?


42.ユング心理学 「影」それはもうひとりの私

図書館で借りた本の中で、ほのかがいちばん夢中になったのは、白い表紙の『ユング心理学』だった。ほのかは、自分が「心」という名の巨大な火口のふちに立ち、こわごわその噴煙の穴をのぞきこんでいる気がした。カール・ユング。1875年スイス生まれの心理学者にして精神科医。フロイトと訣別し、長い困難の末、夢・神話などを重視した独自の深層心理学を打ち立てる。

ユングの重要な概念に「影」がある。抑圧された、もうひとりの自分。それは自分の内部に住むが、具体的な形をとって、本人の前に現れることもある。品行方正なジキル氏と邪悪なハイドの関係だ。ある友人が、気になってしかたがないとする。いつも驚かされ、ときにはイラつき、知らぬ間に影響を受けている。この友人は、その人の「影」である可能性が高い。自分の未発達な部分に似ている。抑圧された、その部分がうずく。だからどうしても気になって、無視できないのだ。

ほのかは、ジジを思った。知り合ったばかりのころ、そのわがままやドライなところ、積極性におどろき、ときにはイラつき、そのくせどこかあこがれていた。ジジはほのかの「影」なのだ。ずいぶん明るい影だけど。自分の中にも、ジジのように、自由奔放で、大胆で、冒険好きな部分がある。「優等生」で「繊細」なほのかの影にひそむ、らんらんと目を光らせた、野生動物みたいなほのか。ジジと過ごすようになって、そんなほのかが、少しずつ顔をのぞかせ始めた。まえよりは悪い子だけど、ほのかはそれが自分でけっこう気に入っていた。

ユングにはもうひとつ、ほのかの気をひく概念があった。「アニマ」そして「アニムス」。アニマは、男性の内なる理想の女性像。アニムスは、女性の男性像。人は、その理想のイメージに合った異性にあうと、激しく求めて、自分のものにしたいと願う。それは本能の叫びであるから、制御できない。人は、そのすさまじいエネルギーを、恋と呼ぶ。だが、アニマ、アニムスも影同様、自分にひそむ内なる異性の部分なのだ。だからこそアニマと出会った男性は、以前より繊細になるし、アニムスと出会った女性は、人生を切り開く強さを身につける。これが人格の発展なのだが、そこまでいくには、表現し得ない苦しみを経験するとユングは説いている。

アニマやアニムスと出会ってしまうことは衝撃的だけど、反面、危険なことなのだ。それまでの、小さくはあっても完成されていた自分が、根こそぎくつがえされてしまう。ケントは、ほのかのアニムスだった。ひとめ見て、衝撃を受けたのだ。ほのかは大学に入ったばかり。彼は4年生だった。頭が切れ、礼儀正しく、やさしくて、新入生からみたらあこがれの先輩だった。でもケントには、どこか破たんしているところがあった。人がよいのに、邪悪だった。何でも知っており、礼儀正しく、常識的なのに、何かが欠落していた。欠落してたのは上昇志向だったかもしれない。かといって怠け者ではなく、たんたんと仕事していた。

ケントという複雑な男と出会ったことで、ほのかの健康的で単純な、親や学校から受けついだ価値観はゆらぎ、消えた。彼の好み、くせも、考え方もすべて知っている。だけど、彼の欠落感の深さは、ほのかの子どもっぽさではとらえることができなかった。ケントは卒業し、名の知れた会社に就職し、普通に仕事をしていたが、ある日、やめてしまった。「そうするしかなかったんだ」といった彼は、ひどく冷静だった。そして、旅に出る、といった。世界を見て歩きたい、という若者らしい元気さはなかった。彼はおそらく、システムから逃げたのだ。というよりそれに興味がないことを隠すのに疲れたのだ。ついていく、とほのかはいったけれど彼は首をふった。別人になっていた。

その雨の日、二人は地下鉄で別れた。数日後、外国へ旅立ったと聞いた。競馬。酒。雪国。衝動的な旅行。彼の好きだったものだけが、落とし物のように、ほのかに残った。あのやさしい視線とともに。あんなにやさしくほのかを見る人は、今までもいなかったし、これからもいないのではないか。彼のどこが、ほのかのアニムスなのだろう。濃く広がっている虚無的な宇宙。ほのかにも、無気力な部分があった。見るのがこわくて、見えないふりしてきた深い闇だった。だけど、乗りこえつつある。私は逃げない。自分の中の、冷たい宇宙、心のひだを認めながらも、私は先へ進んでいく。それがほのかの選んだ生き方だった。


43.ひなげしの一生 雑種だけど、生意気な子猫

春がまだ冷たい頃、花屋の店先で売られているひなげし。100円玉をいくつか渡せば買えるほど安いのに。親しみやすくないのが、気にいってる。雑種だけど、生意気な子猫。こわれそうな店なのに、カリッと焼きあがった小粋なピザ。ちんぴら娼婦だけど、だれにもつかまらないホリー・ゴライトリー(「ティファニーで朝食を」のね)。そんな感じのお酒落っぽさ。「きらい」という友達もいる。それもまたうれしい。誰もが好きな花って、視聴率のいいドラマや、誰もが持ってるブランドみたいで、つまらない。

ひなげしの蕾は、ごわごわの黒く短い毛でおおわれている。タヌキの毛皮のよう。そして、香る。甘くなく、さわやかでもセクシーでもなく。すーっと鼻こうをすりぬける、乾いてこげたような香り。それが、好き。ひなげしは、けしの仲間。その実が阿片になるので、栽培禁止になった幻の白い花。その禁を犯して、年間200人ほどの人が今も栽培し、捕まるのですって。ひなげしに、毒はありません。けしから見たら、面差の似た、親戚の女の子っていう関係。よい子に暮らしてるのに、どこかふてくされた、不良っぽい匂いのするような。

やがて蕾がはじけると、くしゃくしゃの花びらが顔を出す。何色? 瞬間の小さな賭け。オレンジ、白、ピンク、真紅に卵色、しぼりがかったの、ふちどりのあるの、1枚だけ別の色が混ざったの……。ぱちん、とまたはじけた。次のは、何色? 蝶々が羽根をのばすように、花びらもりんとカラダを伸ばす。りんとした花びらがいくつも。風もないのに、くねった、太い茎の上で揺れている。

あの日、あたしは電車に乗っていた。ひなげしの花束をひざに抱えて。隣りに銀髪の上品な老婦人がすわっていた。「あの、ちょっと失礼ですが」おばあさんに声をかけられた。「その花は、紙でできてるんですの」「いいえ、本物の花ですわ」どうぞ、とあたしが花束をさし出すと、おばあさんがそっと花びらに触れた。「本物ですのね。紙の花かと思いました」おばあさんは笑顔を見せ、それから静かに居眠りを始めた。ゴオーッと音がして、電車がトンネルに入る。何もかもが無彩色となったその瞬間、ひざの上のひなげしだけが、なんとあでやかなオレンジ色に燃えていたこと!

やがて花びらが散る。1枚ずつ。ばっさりと。音はしないのに。気配で必ずふり返る。また1枚……。ばっさりと。ねぎ坊主のような頭だけが残る。あたしは花びらを拾う。カットグラスの鉢に水をひたし、そこに浮かべる。2、3片のオレンジや黄色やピンク。つめたい春の破片。あたしの指先にも、こげたような乾いた香り。いつも花粉に触っているから。ミラノの富豪が言ってたわ。「ジジの指先にキスすると、季節がわかるんだ」って。花なんかなんの興味もない人だったけど(邸宅の庭には1年中花が咲き乱れていたというのに)あの人、ひなげしの咲く時期だけはよく知っていた。

1束数百円で、ひなげしの一生、買ってみませんか。


44.夜が好き 何もかもが薄青のベールにおおわれて

天は、螺鈿の青ガラス。(草野心平「夜の天」より)

人気のない大通りに、赤信号がどこまでも続く。次の瞬間、すべて緑に。ピュワーンと音をたてて、ときおり走り去る車。風をうけて、かすかにふるえるポプラ並木。そのどちらもが、ガラス絵のように黒いシルエットを浮かびあがらせている。星は金ラメ。鋭く、幾粒かまたたいている。そして三日月。か細くて、今にも折れそう。何もかもが、薄青のべールにおおわれて。夜は、きれい。芸者になったカリカ・ベルが、料亭へと歩いている。縞の着物の裾さばきもあざやかに。「夜」という名の劇場は、今宵まだ幕が上がったばかり。


45.クリシュナムルティ この瞬間の自分自身に気づいていること

図書館で借りた緑の表紙の本は『クリシュナムルティ』と題されていた。本の裏表紙には、白髪のいかにも品のいい老人の写真が載せられている。この人が、クリシュナムルティなのだった。1895年インドに生まれ、講演や著作を通し、人々の覚醒を促したという。亡くなった今も、世界中で信奉者は増え続けている。彼の教えは、シンプルだ。

今、この瞬間の自分自身に気づいていること。

だけど、これはむずかしい。人の心はいそがしく動き回り、今、本当に何をしてるか、何を感じてるか、無自覚なことがふつうなのだ。たとえば、今、悲しい自分。これは純粋だ。しかしそれを認められずイライラしたり、昔の記憶と重ね合わせてよけい落ちこんだり、悲しいのは誰それが悪いと分析したりしがちだ。今、分析してる自分だと気づいていればよいが、気づかない場合が多い。

しかし、今、悲しがっている瞬間を、強く実感すれば、経験としてそれが蓄積されることはなく、悲しみは終わるという。クリシュナムルティは、本からの知識、信念、権威への恐怖なども、自分に気づくじゃまをしている、と説いている。「そういうものなしに、あらゆる経験を刻々と、本当に理解するとき、その経験は終わり、あとになにも残さない」

自分を探すための勉強は、ひとまず終わりにしよう、とほのかは思った。これからは自分の目や耳で、今の自分を100%体験したい。「本を返却したいの」とほのか。「どこか近くのポストにほおりこんどいて。それで自動的に屈くわ」とジジ。青いうさぎの図書館員は、今日もいそがしくジープで走りまわっているだろうか。


46.1週間の別人プログラム これが本当のあたしなの

気持ちのほうは方向性が見つかったので、外見も自分らしく変えてみることにした、春風ほのか。自分で1週間のプログラムを組みました。別人ほのか、誕生する……でしょうか。

月曜日 アカスリへ
手始めに、古い角質を全部こすりとってもらいたい。新しい自分になるため、必要なのです。それで、第一日目はアカスリに。係の人の指示通り、お風呂に入り、サウナで汗をしぼり、皮膚をふやかした。順番が来ると裸で横たわり、全身をこすってもらいました。痛いような、気持ちよいような。ざあっとお湯をかけられて、古い皮膚と古い自分が洗い流される。仕上げに全身、ボディローションを塗られて、ピカピカのほのかが、今、生まれました。

火曜日 エステティックサロンへ
このところ、肌の手入れなんて考えてなかった。鏡を見るとソバカスがあるので、皮膚科系のエステに出かけました。ガウンに着がえて横になると、技術者がゆっくりマッサージしてくれます。蒸気を当てたり、電気で軽く刺激したり。疲れが毛穴から抜けていく。肌はなんにもいわないけど、やっぱり大変だったんだわ。そのままトロトロと眠ってしまい、めざめたら、すべすべ肌のほのか。

水曜日 美容室へ
イメージチェンジしたくて、ミスミ・アリに教えてもらった美容室へ。モード系でもコンサバ系でもなく、ちょっとお酒落、だけどさりげない感じにと頼んだ。スタイリストが肩より短めにカットしてくれた。毛先だけ軽くパーマをかけて、自然な動きのでるウェーブ。前髪をサイドに流し、少し髪をオレンジに染めて。お嬢さんぽくもキャリアガールっぽくもない。ニュアンスのあるほのか風に仕上がりました。

木曜日 服を買いに行く
今までの服は着たくない。新しいほのかに合う服を買いそろえたい。自分がはっきりした分、着たい服がわかるようになった。流行の服、無難な服、みんなうんざり。遊びっぽいけど、基本はちゃんとしてる。キュートだけど、甘すぎない。そんな絶妙のバランスの服が好き。アジアン・テイストのアナ・スイやとにかく可愛いトッカにはまった。仕事用のスーツは、女らしいイタリア製。お出かけにAラインの赤いドレス。ほのかに主張のある服が集まりました。

金曜日 ネイルサロンヘ
ネイルエナメルくらい、自分で塗れるけれど。一度くらいプロに手入れしてほしい。技術者が、やさしく両手をマッサージしてくれた。大事にされている――と実感できた。それから色選び。デュフィのピンクやマティスの赤、カンディンスキーみたいな金ラメ……全部試したかったけど。今回は、パールピンクの上品な色みに。甘皮をスティックでおさえ、ベースコートを。それからエナメル。爪の中央を、次に半月部分、残った左右をタテにすっすっと。この4回で塗り替える。そしてオーバーコート。つやつやと光る、きれいな爪に、歓声!

土曜日 メイクアップ・サロンヘ
メイクって毎日してるけれど、むずかしい。雑誌で見ても、骨格が人によりちがうから。プロのアーティストに、ほのか用のメイクを教えてもらいました。可愛さのある、大人顔をリクエスト。自分に合ったファウンデーションを混色してもらう。眉の形は丸く整え、すみれがかったアイシャドウ。くっきりとアイライン。ビューラーしてマスカラたっぷりと、下まつげの目頭3本が重要とか。ほほべに、ほんのりと。仕上げは、ぽってり椿の赤のくちべにを。

ほのかはピンクの部屋に戻りました。そして日が落ちるまでゆっくりとコオヒイを飲みました。時間になると、着がえました。これから劇場に出かけるのです。光沢のある絹のシンプルな赤いドレス。金色の古い時計、スピネルの指輪、エルメスの黒い靴。マンションを出たところで、大家さんちの大学生タカシくんと出くわしました。タカシくんはほのかを見て、声もありません。丸い目をいっそう大きくして、ただ眺めるばかりです。「どうしたの。別人かと思った」 ほのかは、タカシくんの耳もとでささやきました。「これが、本当のあたしなの」 まだ立ちすくんでるタカシくんを残して歩きながら、ほのかは自分にびっくりしました。どうして、あんな大胆なことが言えたんだろう。ほのかは確かに、別人になっていました。


47.バレエ「ラ・シルフィード」 妖精は踊るのが好き

前から3列目。今日はS席を奮発している。ミスミ・アリは先に席についていた。ロイヤルブルーの胸のあいたドレスに黒いショール。ひざには猫の形のパーティー・バッグ。くちべには、アネモネのピンク。「すてきね」と口にしたのは、アリのほうだった。ほのかは先を越されていた。「外見だけじゃないの。最近、ほのか輝いてるもの」アリの目も輝いていた。「ありがと」ほのかがもっと話そうとしたとき、照明が落ち、あたりはしーんと静まってしまった。

今日のバレエは『ラ・シルフィード』だ。空気の精のたわむれの恋。羽根のはえた美しい妖精が、青年のまわりを飛びまわっている。青年には婚約者がいるというのに、妖精は彼を誘惑してるのだ。これは、勝ち目がない。ほのかは思った。妖精は恋するのが仕事。駆け引きしながら、男の人の気をひくなんて朝飯前なのだ。ジジならなんていうかしら。ほのかはジジを誘ったけど「興味ない」と断わられていた。『ジゼル』『白鳥の湖』『くるみ割り人形』『オンディーヌ』……妖精の登場するバレエは数え切れない。そのどれもが妖しい美しさにしびれさせられる。

本物の妖精だって、踊るのが好きなのだ。ジェームズ・バリの「ピーター・パン」によれば、妖精は「愉快だね」というかわりに「踊りたくなるね」というのだとか。月の光が絹のリボンのように地上へ届く晩、妖精女王は仲間をひきつれ、草原や牧場で輪になって踊りあかすという。ジジだって例外ではない。ほのかの前でくるくる踊るのが好きだった。だから、誘ったのに。

物語は進み、妖精と男は恋人どうしになる。しかし妖精は自由きままで、彼ひとりのものにはならない。男は彼女を独占したい。そのとき、魔女がそそのかす。背中の羽根がいけないのだ。羽根がなければ、妖精はおまえだけのものさ。「この布を肩にかけてごらん。羽根が落ちるよ」 おろかな男が口車に乗せられる。羽根は妖精の命だというのに。男は、恋人の肩に布をかけた。羽根が落ちて、妖精は静かに息たえる。羽根が落ちて。あれ? ほのかは前のほうにすわっているから、気づいた。羽根は落ちてない! 何かの手違いかしら。それでも妖精は衰弱し、静かに息絶えた。半狂乱で死体にすがりつく男。その背後を婚礼の行列がにぎやかに通りすぎる。かつて婚約者だった娘と、男の親友との結婚式。皮肉な幕切れだ。

拍手が鳴りやまない。出演者たちが、もう一度舞台に現われる。最後に、妖精役のプリマが登場する・・・はずなのに現われない。拍手が一層高くなった。スポットライトが舞台の袖を照らす。だけど、プリマは現われない。楽屋で、そのバレリーナが着がえていた。背中の羽根は、まだついたままだ。それをていねいにたたんで、上からダナ・キャランのワンピースを着こみ、そしてさっさと劇場を後にした。「ああ、気持ちよかった」交差点をわたりながら、ジジがひとりごとを言った。「こんなに思いっきり踊ったのは、久しぶりだわ」


48.コモド・ドラゴンの背中 自分のコモドを乗りこなさねば

ある晩、夢を見た。その光景を、数日後、短歌にしてみた。

街なかヘコモドドラゴンの背に乗りて吾はゆうゆうと放浪しおり

イヌワシを襲はせ食はせまた歩む コモドの背中の女たちなり

湾岸にコモドとコモドが出くわせば背と背で女がうふふと笑ふ

この歌はいったい何だろう。自分で作ったというのに、ほのかには意味がわからなかった。コモドドラゴン――体長約2メートルの大トカゲ。インドネシア、コモド島産。獰猛にして敏捷。ときには人間を襲うこともある。この島の観光客はガイドといっしょでなければ散歩してはならない。大トカゲの生息地に踏みこみ、かみ殺されることがあるからだ。あれはおそろしかった。ほのかはジョグジャの動物園を思い出していた。

コモドのコーナーは園内の崖下にあり、観客は上から見おろす形になっていた。のぞきこむと、数頭のコモドがドタッところがっていた。黒灰色で、大きく、恐竜のようにグロテスクだった。ワニよりは小ぶりである。そのとき餌である肉のカタマリが差し入れされた。あっという間にコモドたちは飛びつき、仲間どうしで肉のとりあいをはじめた。なんて素早いのか。ワニのほうがマシだとほのかは思った。ねらわれたら、逃げられる見込みはない。あのおぞましい生き物の背中に、ほのかはどうしてまたがっていたのだろうか。

しばらくして、ほのかはある雑誌に花に関するコラムを書けることになった。質がよければ、まとまったところで出版の可能性もある。出来が悪かったら、途中で連載が打ち切りになるかもしれない。ほのかはプレッシャーで蒼白になりながら構想を練り、取材をした。それを文章にまとめようとしたとき、ほのかは思った。たったひとりで仕事するとは――いや、そうではない――本当に大人になるとは、コモドの背中にまたがるのと、同じことではないかと。

こわくて泣き叫びたくても、逃げ出して助けを求めたくても、それをすることはできない。そろりそろりと近づいて、やみくもでも破れかぶれでも勇気を出して、コモドの背中に足をかける。ふり払われて、食べられるかもしれない。そんなわけにいかなければ、なんとしてでも成功しなければいけない。うまく乗ったら、涼しい顔して、あやつらなければいけない。ときどきは餌を食べさせ、きげんをとりながら、自分の行きたいところへ連れて行かせる。

逃れられない、闘い。だけど、コモドの背中から見る景色はなんて爽快なのだろう。疲れてTVをつけたら、野茂がマウンドに立ち、ボールを投げていた。彼の乗っているコモドドラゴンは、飛びきり巨大で、飛びきり獰猛な奴ではないか。画面が変わり、大会社の倒産で失職したビジネスマンたちが映っていた。彼らもまた今まで以上に大きなコモドが目の前にせまってきているのだろう。

ほのかは背すじをのばしていた。自分のコモドを乗りこなさねばならない。こわくても覚悟をして、そうしなくてはならない。そしてゆうゆうと乗りこなし、同類と出会ったら、涼しい笑顔をかわしたい。これからまた就職するかもしれない。結婚することもあるだろう。たとえ組織に入り、家庭をもったとしても、私はコモドの背中に乗って歩む。一生、降りたくはない。これからが本番なのだわ。ほのかはTVを消し、原稿用紙に向かった。


49.桜の森 異次元までつづく薄紅色の海

「ピーター・パンを」とジジが言った。「大人になれない男の代表みたいにいわれるのは、ガマンできないわ」「そうよ。彼は困難に立ち向かう男だわ。困ってる人を見ると、自分の身が危なくても助けにいくの」ほのかは大賛成だ。「彼は、大人になる必要のなかった少年なのよ」ジジの目はうつろだ。ピーターを語るとき、彼女は少しウェットになる。「すごく陽気なのに、孤独なところがあった」 赤ちゃんだったピーターが家に帰ろうとしたら、窓はもうしまっていた。あのとき、彼は甘えるのをやめた。自分だけを頼りにした。それだけに、そぶりにも見せないけど、心のどこかにブラックホールを持っていた。「あんなひとに会いたい」とほのか。彼を思うと、大人になった今も胸がキュンとする。「いるといいわね」ジジはめずらしく素直だった。

桜の花びらが、闇にふわふわ浮かんでいた。街灯の光をあびて、しっとりと輝いている。花びらを見れば、ほんのりピンクを内在した白。それなのに、はるか見渡せば、まぎれもなく薄紅色の海。ほのかは、桜の森を歩いていた。書けることになった、花のコラムは写真と2ページで構成される。写真家は花の撮影の第一人者、ゲン・タチハラだ。東京で撮影しては間に合わない。ゲンは南へ飛んだ。ほのかも今、撮影現場を訪れている。

さくらちるちる、ちらちらちるちる 風に吹かれて舞い狂う からだに貼りつく、桜吹雪

木々の向こうから、誰かが現われた。木の幹を出入り口にしていた、あの妖精のように。「タカシくんじゃない」 大家さんとこの大学生が、どうしてここに。や、見つかっちゃった――というふうに、タカシくんが頭をかいた。「あれ、春風さん、この子、知ってるの?」タカシくんの背後からゲンが姿を見せた。「ゲンさんのアシスタント? まさか」「大学入ってから、ずっと手伝ってくれてるんだ」この子はなかなか有望だよ、とゲンがタカシくんの頭を抱いた。大きいコンテストで佳作になったしね。卒業して2、3年したら、独立するんだとさ。そんな甘かないけど、こいつ根性あるからね。

春風さんとロケハンして来な、とゲンに言われ、ふたりで森を歩いた。タカシくんの横顔を、ほのかは今、初めてちゃんと見た。太い眉と気の強そうな瞳は、キンキ・キッズの堂本剛に似ている。ことばを選ぶ話し方に、繊細さも感じられた。明るくて面白い子だと前から思っていたけれど、それはこちらをひきたてるための、心づかいだったのかもしれない。独立って、資金はどうするの? この他もバイトしてんだよ。写真集を出したい。今、十代で仕事してる子を撮りだめしてる。早く実績つくらなきゃ。ぽつりぽつりとこれだけ言った。

夢を語るのはやさしいが、夢に向かって一歩ふみ出せば荊の道だ。孤独な闘い。彼はそれを始めていた。ほのかより7つも年下だというのに。タカシくんの中の、陽気さと孤独。あれ、誰かに似てる。誰だっけ。そのとき、風が吹いた。ひいらりはあらりと花びらが散った。ふりしきり、ふりそそぎ、薄紅色の空気となった。見あげると、漆黒の枝が交錯し、闇に脈うつ血管のようだ。そこに、暗闇の花が散った。ひらりるはらりる薄墨色の花びらが、体にはりつき、服をひきさく。春の夜の狂気。こうしてふたりで立っていると、異次元まで連れ去られてしまいそうな気がする。

ほのかは、ほろほろと涙の粒がとまらなくなった。タカシくんが何も言わず、ほのかをそっと抱きしめた。いくつぶも、いくつぶも薄紅色のつめたい涙が、ふたりの肩にふりかかった。大地に、カラダに、しんしんと花びらが積もり、ふたりは薄紅色の彫像になった。もう、泣いているのは、桜だけだった。ほのかは、タカシくんのぬくもりに包まれながら、肩にも髪にもふりつもる、花びらの冷たさを感じていた。あたしは、今、ここに生きている。この満開の桜の森で、タカシくんと。この先、彼とどうなるかはわからない。だけど、この瞬間の幸せは永遠だわ。ほのかは、今、大地にしっかりと根をはっていた。この森の桜の樹々に負けないほど、しっかりと。


50.旅立ち バイバイ

ほのか「ジジ、どこへ行くの?」 ジジ「そろそろどっか冒険に行くわ」 ほのか「また会える?」 ジジ「どうだか」 ほのか「会えなくても、ジジはいつもあたしといるわ」 ジジ「文学的ね。雨が降りそう。そのまえに出かけなくちゃ」 ほのか「元気でね」 

ジジが思いっきりニッコリ笑う。その顔が、いかにも悪い子の雰囲気で、ほのかは少しこわくなる。ジジは窓をあけ、息を吸うと、ふりかえらずに飛んでいった。すぐに見えなくなってしまった。

「……イバイバ」かのほ


本ページには岩田裕子著『妖精のレッスン―じぶんを見つける50のレシピ』の文章(41~50)を掲載。