21 椿姫

シネマの宝石学
―洗練された大人のおとぎ話21

幸せの値段

1848年という、今から150年以上も昔に書かれた小説、その五年後に作られたオペラ、20世紀初頭に製作された映画が、今も人々の涙を誘うのは、このヒロインが格差社会を必死で泳ぎ、その苛酷な現実のなか、愛を選んで、力尽きた―そのひたむきさに胸を打たれるからではないだろうか。悲しくて、崇高な「椿姫」の物語。

19世紀を早足で駆け抜けたヒロイン、マルグリット・ゴーチェ(小説と映画での名前。オペラでは、ヴィオレッタ・ヴァレリー)、そして実在のモデルであるマリー・デュプレシは、21世紀には想像もできない極貧の暮らしから、やっとのことで這い上がった。たったひとつの財産である類まれな美貌を、持ち前の知性でうまく操って。しかし、その当時の社会の格差は、21世紀の比ではなかった。どれだけの美貌、どれだけの才能をもってしても、ガラスの天井にぶちあたり、そこを突破することはできない。

マルグリットが落ち着くことができたのは、ドゥミ・モンドと呼ばれる偽社交界だった。ドゥミ・モンド(demi-monde)。王侯貴族で構成されるmonde(真正の社交界)に対し、半ばしか人権を認められない高級娼婦と羽目をはずしたい貴族たち、その周りを浮遊する遊び人たちが繰り広げる、もうひとつの社交界のことだ。

それは、19世紀のパリにしか存在しない、ばかばかしいほどにぎやかな、人間の欲望まるだしの、この世の仇花的ワールドだった。マルグリットは、クルチザンヌ(高級娼婦)になったのである。派手なドレスで着飾り、豪奢な邸宅に住んでいるけれど、それは仕事を有利に運ぶための制服とオフィスのようなもの。貴婦人のごとく優雅に微笑み、極上の宝石をきらめかせていても、内実は火の車。借金に追い立てられ、先の見通しなどまるでない。体を張り、自分を偽り、それでも安定を勝ち取ることができない彼女たちは、まさしくワーキングプアなのである。そんなマルグリットが、本気で恋をしてしまう。

グレタ・ガルボの椿姫

椿の花が好きなので、椿姫とよばれたヒロイン。アレクサンドル・デュマ・フィス原作の「椿姫」は、これまで何度も映画化されているのだけど、今回、取り上げた1936年版では、マルグリットをグレタ・ガルボが演じている。「永遠の夢の王女」、「スウェーデンの美のスフィンクス」、「神聖ガルボ」と呼ばれた20世紀前半の伝説的大女優だ。監督は後に「マイ・フェア・レディ」も撮った名匠ジョージ・キューカーである。

映画は、19世紀パリの花屋から始まった。大好きな白椿のブーケを買い、明日はもっと大きいのにするわ、とご機嫌なマルグリットに、中年の友人ブリュダンスは、「無駄遣いはだめ、若さは永遠じゃないのよ」と釘をさす。マルグリットの耳には、きららかなダイアモンドとサファイアらしきイヤリングがゆれ、ブティック経営者である女も、悪趣味なくらい派手なネックレスを身につけているというのに。贅沢な外見と、貧困という内情。花や夢、恋という本能的な幸せに、お金や時間という現実が立ちはだかる。この映画のテーマは、こうして冒頭に提示されているのだ。

ふたりは馬車で、人気の劇場に乗り付けた。劇場では、流行のフレンチカンカンが上演されていた。しかし、マルグリットたちの目的は観劇ではない。ここで仲間の娼婦と目立つ桟敷席に坐り、格好なターゲットを手に入れようというのである。このときの、彼女たちの宝石には目を見張る。ミュージアムピースといってもいいほど、ゴージャスなパリュールだ。さきほどのイヤリング、5カラットはありそうなスクエアカットのサファイア(エメラルドかもしれない。この映画は残念ながら、モノクロだ)を、ダイアモンドがレース編みのように囲んでいる幅5センチはありそうなネックレス。同じシリーズのブレスレット、髪飾り、イヤリング、という高価なセットなのだ。毛皮のふちがついた、贅沢な白い衣装にとてもよく似合っている。

そして、獲物を捕まえた。ロシアの裕福な男爵がマルグリットに夢中になったのだ。といって、マルグリットが何かしたわけではない。美しく着飾り、ほんの少し微笑みをうかべたら、勝手に相手が彼女に恋をしただけ。圧倒的な魅力のあるマルグリットにとって、こんなことは、日常茶飯事のできごと。単なるルーティンワークでしかないのだ。

しかし、この日は予想外の出来事が起こった。ターゲットと同時に、もう一人の男性と出会ってしまったのである。世の中をまだ知らない、純情な若者アルマンだ。お金持ちの男爵は、マルグリットの生活を保障してくれるけれど、お金もないごく普通の青年なんて、好かれても何一つメリットはない。マルグリットにとっては、まったく眼中にない存在だ。ただ彼の初々しさに免じて、ほんの少し微笑を投げてあげただけ。

ところが、このなんてことない青年が、マルグリットの命取りになるのだから、人生はわからない。彼女は、結核もちなのである。「陽気さ」しか必要としないドゥミ・モンドでは、病気の娼婦なんて、話の種にもならないのだ。マルグリットの具合が悪いとき、彼女を欲望の対象としてしかみない男たちや、売れっ子の彼女から利益を得ようとする仲間たちは、寄り付きもしなかった。

そんなときアルマンは何ヶ月にもわたり、マルグリットの家を訪れ、家政婦のナニーヌに容態を聞き、お見舞いの花だけ届いたのである。この行為を知ったとき、マルグリットは驚いた。男というものは、お金の代わりに快感を手に入れようとするもの、と、ごく少女のころから思い込んでいたマルグリット。

しかし、アルマンは何もせず、ただマルグリットを敬愛し、そして心配してくれただけなのだ。生まれつき極貧の生活しか知らないマルグリットは、家族からも無償の愛をなかなか受け取れなかったのかもしれない。あきるほど恋を重ねてきた彼女にとって、まったく知らなかったのが、無償の愛だったのだ。アルマンは、彼女の外見だけでなく、その中身をも愛してくれる。マルグリット自身、自分の中身なんて忘れていたに違いない。

気がつくと、彼女は恋に落ちていた。娼婦仲間から見たら、職業を忘れたマルグリットは、堕落した存在そのもの。しかし、なんと言われようと、愛を知ってしまった彼女にはどうでもいい。やがてふたりは、ナニーヌだけ連れて、田舎暮らしをはじめるのだ。田園に到着したとき、家政婦の女性が抱えきれないほど大きな宝石箱を抱え、御者に「これだけは自分で運ぶ」と主張するのが面白い。

幸せの代償

パリの瀟洒な館に比べたら、あまりにつつましい田舎の一軒家。しかし、明るい日差しの入るその家で、マルグリットは、生まれてはじめて、心からの幸せを味わった。少女の頃、牛の乳しぼりだったのを、なつかしく思い出したりもする。かつて、たくさんのパトロンに、浴びるほど宝石を贈られてきたマルグリットが、アルマンのためなら、自分の宝石をお金に換えようと考える。

高級娼婦だった彼女は死んだ。そのかわり現われたのは、自然を満喫する素朴で、陽気な娘だった。その陽気は、馬鹿騒ぎのわざとらしさとは全然違う。本当に心から楽しいのだ。このあたりの彼女は目が輝き、本当に美しい。羊たちの群れる田園を歩く彼女の、なんて幸せそうなことだろう。贅沢なパリュールを身につけ、退屈そうに、微笑んでいた彼女とは、比べ物にならないほど美しい。

しかし、幸せは続かない。運命はあくまでも彼女を試すのだ。ふたりの愛の巣に、アルマンの父が現われる。真っ当なおとうさん。中産階級で、家庭の幸せを第一に考える父親にとって、たとえ、マルグリットがどれほど真剣に息子を愛していたとしても、別れてくれ、と頼みたくなる気持ちはわかる。このままでは、アルマンの未来は、めちゃくちゃになる、と父は言った。

「この世にアルマンさえいてくれれば、何もいらない。アルマンだけが命」と、訴えるマルグリット。しかし、世の中を知っている彼女は、父の言っていることも理解できる。父のほうも、決してマルグリットを悪女と決め付けているわけではない。話してみて、本気なのはわかったのだ。わかっているけれど、この愛は続かないし、アルマンのため、身を引いてほしいと、頼む。マルグリットには、それは死ぬよりつらいこと。自分は結核でもう少しで死ぬのだから、と、いうけれど、結局、アルマンのためを思い、別れると、父に約束する。

最後にマルグリットは付け加えた。「このことは彼にいわないでください。お父様が彼に嫌われるから。それでは彼が頼りに出来る人がいなくなってしまう」 このあたりで、観客の感動は最大限になる。今まで、こんなふうに人を愛したことがあるだろうか、と。

その夜、マルグリットは、まるで夜会に出かけるように美しく着飾り、アルマンに別れを告げた。「これから男爵のお城にでかけるのだ」と嘘をついて。命より愛している人に、嫌われようとするほどつらいことがあるだろうか。それをやってのけるマルグリットは、娼婦から聖女に変貌したのかもしれない。世の中が、恋愛だと思い込んでいるものの、ほとんどが自己愛。自分勝手なものだったことに思い至る。愛情とはこういうものだ、と、この80年も昔の映画に教えられる。

客観的に見たら、彼女が無理やり男爵の名を出して、彼を遠ざけようとしているのがまるわかりだが、アルマンだけは、彼女を愛している弱みで、その嘘が見抜けない。

愛の結末

月日がたち、パリに戻った二人は、新しく出来た賭博場でばったり遭遇してしまう。男爵に連れられた美しいマルグリットに、冷たい視線を投げるアルマン。

一方のマルグリットは、彼に出会ったことに衝撃を受け、手にしていた扇子を2回も落とし、あたふたと拾い上げる。かつて、優雅な身のこなしで、嫣然と笑っていたマルグリットと、同じ人間だろうか。ぎこちなく、みっともない。それなのに、余裕の微笑みを受けていた頃とは、比べ物にならないほど美しい。胸に光る、星の形を連ねたダイアモンドのネックレスは、男爵にもらったのだろうか。その男爵は、敏感に愛人の心境に気づくのだけど、当のアルマンだけは類推することもできないのだ。

ふたりになると、アルマンに賭博をやめるよう、必死で説得するマルグリット。アルマンは「君といられるなら、泥棒でもやる」と訴える。マルグリットははっとした。「今、はっきり別れてよかったと思ったわ」愛しすぎていながら、理性が働く。アルマンの幸せだけしか考えていないから。アルマンのほうは、公衆の面前で、彼女を罵倒した。「君は、愛や優しさより宝石や馬車を選んだんだ」そして、今、賭博で儲けた大金をマルグリットにたたきつけた。「これで、椿でもダイアでも墓でも買えばいい」

愛ゆえとはいえ、アルマンは幼すぎる。彼は外国に出かけてしまった。やがて、病魔が彼女を襲った。もう生きる気力もない。男爵とも縁を切ってしまった。彼女の宝石は、生活のため、仲間の娼婦に格安で売られてしまった。5000フランもする、すごい輝きのブレスレットもたった200フランで譲られた。すっかりやつれ果て、死を待つだけのマルグリット。彼女の死の床に集まるのは、ただ債権者ばかりだった。

これほどまで、けなげなヒロインに、観客が望むことは、せめてアルマンに真実を知ってほしいということだろう。マルグリットは、彼をひたすら待っているのだけど、決して、自ら連絡しようとはしないからだ。

やがて、観客たちの思いが通じたのか、アルマンはやってくる。家政婦にそれを聞いたマルグリットが、瀕死の状態なのに、突然おきあがり、身だしなみを整えようとするのが悲しすぎる。そして、彼女は、愛する人の腕のなかで、命を閉じるのだ。

原作の「椿姫」は、これに比べれば、もっと残酷だ。アルマンは、マルグリットの臨終のとき、外国にいて、死の床に間に合わない。亡くなった後、マルグリットの宝石や家具は競売にかかり、帰国したアルマンは、恋人の墓を掘り返して、マルグリットの変わり果てた姿を見届けるのだ。あれほど美しかった恋人が骸骨になってしまうという無常観。また、それを見ても愛し続けるアルマンの狂気に近い愛は、いかにもフランス好みだと思う。

その原作が気に入っている私だが、実際に病床にいるガルボを見ると、ぜひアルマンに来てほしいと願ってしまう。それだけの力がガルボの演技にはあった。グレタ・ガルボはこの映画の演技が認められ、ニューヨーク批評家協会賞の女優賞を受賞をしている。

グレタ・ガルボの本名は、グレタ・グスタフソン。1905年9月18日、スウェーデン・ストックホルムに生まれている。ライバルといわれたマレーネ・ディートリッヒより4歳年下。ガルボの美男の父親は、道路掃除が仕事だった。大好きだったその父は、グレタが14歳のときに死んだ。このエピソードはとても悲しい。ある本によれば、瀕死の父を病院に連れて行ったが、病院は、彼の容態より治療費が払えるかどうかを気にしたという。病院の待合室で判断を待つうち、父は命を閉じてしまった。

一転、椿姫を演じた頃の彼女は、ハリウッドきっての莫大な出演料を獲得、監督や共演者を選ぶ権利さえもっていた。それだけの頂点に上り詰めながらも、ガルボは、子どもの頃のつらい記憶を忘れないでいたのではないだろうか。だからこそ、悲しい運命の椿姫を、迫真の演技で演じられたのであり、その孤独を感じさせる冷たい美しさで、今なお、名を残すことが出来たのではないだろうか。

宝石の価値

浴びるようにお金を使う娼婦を描いているので、この映画には、数々の宝石が登場する。モノクロではあるが、その輝きと質感で、本物であることは一目瞭然だ。その煌びやかな宝石たちの中、いちばん印象的で魅力的に見えたのは、マルグリットのお気に入りらしい、ひとつ石のダイアモンドのイヤリングだった。

それが最も輝いたのは、誕生パーティの後、発作に苦しんでいる彼女の部屋をアルマンが初めて訪れたシーン。ふわふわの白いドレスに身を包んだマルグリットは、まるで白雪姫のようにかわいかった。「もう会いにきたらだめ、お友達になりましょ」このあたりのマルグリットは、まだ余裕があった。「君は愛を知らない」「誠実なのね。誠実さというものに、初めて出会った」アルマンの腕のなかで、心が揺れ始めるマルグリット。縦ロールの黒髪の間から、大きな一つ石のダイアのイヤリングが見え隠れする。マルグリットの心のきらめきに呼応するように、ピッカリピッカリと、ものすごい輝きを放っていた。

彼女は、白いカメリアを手渡した。「枯れたら戻ってきて」「いつごろ」「明日の夜よ」熱いキス。「もう枯れた」と男はいった。女は恋に落ちた。宝石が最も美しいのは、つける人の心が輝いているときなのだ、と、改めて教えられた映画である。

岩田裕子

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著者からひとこと

今回、取り上げた映画「椿姫」。今まで、こんなふうに愛しただろうか。こんなふうに愛されただろうか。これからこんなふうに愛せるだろうか。と、自分を振り返りたくなるような映画なのです。久しぶりに見たのですが、見る前は、こんなに甘いメロドラマには、してやられない、という気持ちでした。それなのに、見始めたら、涙ぐんでしまう。誰もが持っている、胸の奥のピュアな部分に、まっすぐはいってきてしまって、抵抗できない。そんな映画だと感じるのです。ライバル娼婦、オランプが、もう少し美人でもいいかも、と思ったりするけれど(原作では、見た目はマルグリットと同じくらい美人と書かれている)そんな小さい欠点なんて、見終わった頃には、すべて忘れてしまうのです。