16 大盗賊

シネマの宝石学
―洗練された大人のおとぎ話16

夜の海に沈んだ宝石

今回はめちゃくちゃ楽しいB級映画をご紹介したい。フランス革命前夜、大貴族の宝石ばかりをねらう、かっこいい盗賊のお話だ。いわば義賊で、日本で言えば、ねずみ小僧のような存在。主人公は、実在の人物だという。理屈はいらない。テンポはいいし、音楽も生きがいい。かっこいい主人公の冒険活劇で、みているだけでわくわくしてくる。初めは町のちんぴらにすぎなかった主人公が、勇気と機転で、国王もゆるがす庶民の英雄になっていく。痛快なのだ。

また、この映画のビデオは、日本語吹き替え版で、それがまたとてもいい出来。多分はじめて、テレビでこの映画をみたときも、吹き替えだったのだろう。主役のジャン・ポール・ベルモンドの声は、「ルパン三世」で有名な山田康雄が担当している。それもそのはず。ルパン三世のモデルがこの映画だという説もあるのだ。確かにルパン三世は、ベルモンドに顔もしぐさもよく似ている。それだけでない。銭形のとっつあんを演じた納谷悟朗が伍長役で登場して、ベルモンドと攻防戦をくりひろげる。なんとも粋な映画なのだ。

主役のジャン・ポール・ベルモンドは、60年代、70年代にアラン・ドロンと世界の人気を二分したフランスの大スター。当時、24歳の若さだった。ヌーベルバーグの旗手ジャン・リュック・ゴダールに見出され、デビューしたように、単なるアクション俳優では決してない。ハンサムでないけれど、ニュアンスがかっこいいのだ。

かくいうわたしも、美男のドロンより、しゃくれ顔だけど、おしゃれで複雑な魅力のあるベルモンドのほうが断然好きだ。いい加減だけど、憎めない。衝動的なところも、結構駆け引き上手なところも、すべてが自然でかっこいい。こんな役柄ができるのは、本当に本人に魅力があり、しかも、演技力抜群な俳優だけ。日本でいえば、森繁久弥の軽みに似ている。

監督のフィリップ・ド・ブロカもベルモンドと同じ年に生まれている。エネルギッシュな二人の若者が、才気と元気に任せて作った映画なのである。ブロカは、一見B級映画監督。3歳年上の芸術派ゴダールとイメージは大違い。しかしそうではないのは、彼の作った映画に今も、ファンが多いことでわかる。

ゴダールの作品で、ベルモンドが主演した「勝手にしやがれ」や「気狂いピエロ」が芸術といわれながら、とてもおしゃれなのと、鏡にうつしたみたいに正反対なのが、おもしろい。エンターテインメントのようでありながら、底に虚無をたたえているところは、日本の監督、川島雄三がつくった「幕末太陽伝」にもどこか似ている。この二つの映画は、わたしの映画ベスト2なのだ。

冒険に次ぐ冒険

原題は「カルトゥーシュ」という。フランス語で、盗賊という意味であり、主人公の通称でもある。舞台は、18世紀初頭のパリ。ブルボン王朝華やかなりし時代だが、庶民の間では、贅沢三昧な貴族への不満がふつふつとふきだしかけている。パリの最底辺に生きる若いすりドミニク(ベルモンド)も、貴族にかなり反発を感じている。その一方で、優雅な貴族の女たちに、ほのかな憧れも抱いていた。

彼は大きな盗賊団の一味だったのだが、頭目の汚いやり方に憤りを感じて対立し、パリから出奔。行く当てもないので、軍隊にはいり、さしあたりの衣食住を確保した。しかし戦場は、パリの裏社会以上に、将軍たちに搾取され、その上無駄死にを強要される理不尽な世界だった。兵士が命の危険にさらされている間、将校たちは飽食に明け暮れ、女たちと遊びほうけている。そのばかばかしさに気づいたドミニクは、仲間とともに、兵士たちの給料を盗み出して、逃亡。追跡の手を機転と勇気でのりきり、パリに戻ることができた。

この間にドミニクが手に入れたのは、大金だけではない。気の合う仲間たち――枢機卿の落とし児と自称する上品な「モグラ」、大男で力持ちの「やさおとこ」、変装上手で機転のきく偽坊主。そしてもうひとり・・・。それは絹のハンカチをぬすんで、警察に捕まった美貌のジプシー娘ベニス(クラウディア・カルディナーレ)だった。

19歳のベニスは明るく、そしてけなげだ。自分の持ち物をもたないベニスは、絹のハンカチこそ、幸せの象徴だと信じてやまない。彼女の得意は盗みと踊り。いちばん大好きなのは、干草の上で眠ることだ。彼女のこれまでの暮らしで、干草で眠る時間だけが安心できたのだ。ドミニクは、彼女がすっかり気に入り、一緒に暮らそうともちかけた。盗賊と盗人の結婚。二人は幸せだった。

お金と仲間を手にいれたドミニクは、自分の弟、まだ少年のルイゾンを人質にした卑怯な頭目をやっつけて、盗賊団の首領に担ぎ上げられる。このときから、ドミニクは、怪盗カルトゥーシュと名乗ることになる。

ドミニクは宣言した。人は殺さない。襲うのは貴族だけだ。なぜ彼らだけが着飾って、ウサギ狩りに行く権利がある。俺たちもそうするのだ。「ドミニク、万歳。カルトゥーシュ、万歳。」手下たちの歓声が響いた。やがてパリ中に、盗賊団が出現する。貴族たちの金銀財宝が次々と奪われ、一週間で40頭の馬が盗まれ、20台の馬車が焼かれ、教会も豪邸も例外なく荒らされた。現場には、必ずカルトゥーシュのCの字。ドミニクの隠れ家には、きらびやかな宝石が山と積まれた。

手下が警察に捕まると、奇策を用いて、処刑台から救い出すので、また喝采をあびる。やがてドミニクの首に賞金がかけられた。しかし彼はそれ以上の金を貧民に施すので、カルトゥーシュの人気は、高まるばかりだった。

幸せの絶頂のドミニクは、ときおり貴族のように、妻のベニスや弟ルイゾンと田舎の別荘でくつろいだりする。そんなとき、ベニスは言うのだ。「もっとお金持ちになっても干草を忘れないでね」。こんなところに、ベニスという女の内面が覗く。秀逸な脚本だと感心する。幸せでも、不安感をぬぐいきれないベニス。だからこそ、どれほどドミニクを愛しているかが感じられる。つまらない映画だったら単なる色づけにしかならない役柄なのに。

前半、できる限りの栄光を手にしたドミニクの運命も、このあたりから哀切をおびることになる。カルトゥーシュは街頭で麗しい貴婦人に出会い、たちまち魅せられてしまったのだ。ところが、こともあろうにその貴婦人は、警察署長夫人イザベルその人だったのだ・・・。

情熱的なベニスを愛してはいるけれど、お高くて冷たいイザベルは、ドミニクにとって未知の魅力にあふれていた。まるで遅れてきた初恋とでもいうように、ドミニクはイザベルに純情をささげ、自分の仕事までわすれてしまう。手下たちは、うんざりし始め、ベニスは悲しみにくれているというのに。

カルトゥーシュはイザベルへの愛の証として、トルコ大使がフランス国王に献上しに持ってくる華麗な二つのダイアモンド、神様と悪魔をささげようと約束する。お供を引き連れた豪奢なトルコ大使の馬車の横に、使者が歩いているのだ。真っ赤なビロードのクッションをもって。その上に、ペアシェープのダイアモンドが二つ乗っていた。これでは、泥棒に狙ってくださいといっているようなもの。よくできた映画だが、このシーンだけは笑ってしまう。この辺はご愛嬌といえるだろう。

礼拝堂で祈るイザベルのもとに、カルトゥーシュが忍び込む。悪魔のように輝き、神様のようにすきとおった、巨大な二粒のダイアモンドをもって。あんたの魂がほしいと、語りかける彼に、もはや理性はなかった。この恋が幸せの命取りとなった。イザベルと会うため、「水車小屋で一人で待つ」といいはなってしまうカルトゥーシュ。イザベルも命がけの求愛に夢見心地となってしまう。しかし、夫の警察署長はこのチャンスを逃さなかった。つかまってしまうカルトゥーシュ。

理性をなくした首領に手下たちは冷たかった。ただひとり、彼を救おうとしたのは、裏切られた妻ベニスだった。ベニスは、警察隊の前に一人で立ちはだかった、カルトゥーシュを助け出すと、まるで身代わりになったかのように、拳銃で撃たれて死んでしまう。最後のひとことは「ドミニク、早く逃げて」だった。カルトゥーシュの持ち物の中で、いちばん価値の高い宝石はベニスだったのである。失って初めて、彼はそれに気づいた。

イザベルの邸宅で開かれている舞踏会に、カルトゥーシュと手下たちが乱入した。その腕には、赤いドレスのベニスの亡骸が抱かれている。貴婦人たちの宝石を奪い取った彼らは、まばゆいダイアモンドのティアラや真珠のネックレスを眠っているベニスにささげた。

イザベルの前に立ち、ダイアモンドのネックレスを要求したカルトゥーシュの目には、何の感情ももうなかった。赤いドレスのベニスは、きらびやかな宝石にうずもれて、まるで眠れる美女のようだ。「これこそベニスにいちばんふさわしい」。カルトゥーシュは言い放った。

優雅で育ちのよい貴族の女たちが、実際は身の安全だけをねがい、人の目ばかりを気にする退屈な存在だということに、彼はやっと気がついたのだ。極上のジュエリーは、貧民窟で育ちながら、まっすぐな心を生涯持ち続けた野性的な天使ベニスに本当によく似合っていた。

ベニスの葬送シーンは最高に美しい。宝石尽くめのベニスをのせた馬車が漆黒の夜を疾走していく。手網をにぎるカルトゥーシュも手下たちも沈黙したままだ。やがて、静かな海辺にたどりついた。夜の海に、馬車と女と宝石が沈んでいく。少しずつ、ゆっくりと。やがて、見えなくなった。馬車とともに、元気いっぱいだったカルトゥーシュも死んだ。「これからどうする」と聞く手下に、こう答えた。「やつらに仕返しをする。それからやつらを喜ばす」「死刑台にのぼるのか」「ああ、そうなるだろう」。

このシニカルさが、フィリップ・ド・ブロカなのだ。無軌道な人生は楽しいだけではなく、むなしさと隣り合わせであること、支配階級のずるさや安全であるが故の退屈、義賊の活躍に喝采を送るが自分では何もできない庶民たちのふがいなさなど、すべてしっかり見据えて描いている。子供のころ、はじめてみてから、今まで数え切れないほど見て、いまだにあきないのは、面白いだけでなく、そのなかに真実を描ききっているからだと思う。

それにしても宝石の輝きに包まれて死んだベニスのなんと神々しく、幸せなことだろう。一方の女イザベルが、魅力的なカルトゥーシュに惹かれながらも、その愛を永遠に失い、これから死ぬまで、退屈で狡猾な夫と暮らさなければいけないのかと思うと、どちらがいったい幸せだろうか。舞踏会で、淑女たちを飾っていたジュエリーが、単なるアクセサリーでしかなかったのにくらべ、ベニスを飾った宝石は、なんて生き生きと本来の輝きを放っていたことだろう。宝石は、つける人により、美しさの質を変えるのだと、改めて思うのだ。

ところで、ベルモンドは、宝石の登場する映画に縁が深い。彼のフィルモグラフィーを見ると、宝石泥棒の役はほかにもあって「華麗なる大泥棒」(1971年)ではエメラルドを強奪しようとし、「パリの大泥棒」(1966年)でも、宝石の数々を盗んでいる。

ゴダールの名作「気狂いピエロ」では、金持ちの女と結婚し、余裕はあるが、死んだように物憂い生活を送っているベルモンドが、豪華な宝石をつけた女たちのパーティに出席し、そこでであった野生的な娘(アンナ・カリーナ)とともに、無軌道な生活へ逃走する話となっている。安寧の中の退屈から、危険がいっぱいの幸せへ。「大盗賊」を現代におきかえ、反対から巻き戻したような映画といってもよいのではないだろうか。

岩田裕子

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