天国は待ってくれる

シネマの宝石学
―洗練された大人のおとぎ話04

この連載が始まってから、古い映画ばかり紹介している。もちろん好きな映画には新作も多く、古い映画にしようと決めたわけではない。それでもなぜかそうなってしまうのは、私の宝石に対するイメージのせいかもしれない。

快楽の毒にまぶされ、見る人を現実から、高く高く飛翔させる。身につけると、魂がペールブルーにすきとおっていく。だれもが心の底にかくしている甘い夢、その夢をつき動かし、人を本来の生き生きした自分にもどらせる。それが宝石。そんな、甘い夢を感じさせる映画を取り上げたいのだ。

19世紀生まれの映画監督、エルンスト・ルビッチは、まさにそんな監督だった。「ラブコメディの魔術師」それが彼のニックネームだった。作風は、洗練されて、優雅。喜劇と上品さは、なかなか両立しないものだが、その稀有な例がルビッチだ。

彼を評するのに、こんな言い方をする人もいる。「アメリカ人に恋を教えた男」。なにしろ時代は、「駅馬車」をはじめとする西部劇全盛のころだった。都会的で、ロマンティックなルビッチ映画は、当時のアメリカの人々に、新鮮な驚きを与えたことだろう。いや、今、私たちが見たってこんなにおしゃれな恋愛映画は、めったにあるものではない。

今回、紹介する「天国は待ってくれる」は、まるで20世紀のおとぎ話とでも呼びたくなるような、美しい人生絵巻なのである。ファーストシーンは、なんと、あの世である。死んでしまった老人が、天国か地獄かを分ける、あの世の入り口にやってくる。この「あの世」の描写が、すばらしい。私も死んだら、ぜひ訪ねたい。

立派な赤い柱の間に階段があり、死者がそこを降りていくと、そこは閻魔大王のオフィスである。天井が素晴らしく高く、壁面の棚には、ブルーの背表紙の本が並んでいる。死者のカルテだろうか。広いオフィスには、すわりごこちのよさそうな白いソファが置かれている。なんて、モダンなインテリア。

正面のデスクの向こうには、堂々たる体躯の閻魔大王が待っている。仕立てのよいスーツをパリッと着こなし、口ひげが威厳を感じさせる。老人ヘンリー・ヴァンクリーブは、自分を地獄へやってくれという。罪深い人生だったから、と。ふだんなら、ただ一瞥するだけで天国行きか地獄行きか決める閻魔大王も、ヘンリーに興味を持ち、その人生を語らせるのだ。

彼の人生のテーマは女性だった。赤ちゃん時代、母と祖母にはさまれた、はじめての三角関係。乳母との濃密な愛は、公園で彼女のボーイフレンドの警官が現れたところではばまれ、最初の失恋となった。幼児期には、女の子にかぶと虫をプレゼントして、気前よくしなければ、気に入って貰えないことを知る。15歳のヘンリーに、大人の世界の手ほどきをしたのは、フランス娘の家庭教師だった。

青年となったヘンリーは、ある娘にひとめぼれをする。それまでの遊びの恋とはまったく違っていた。男と女の出会いは、どの映画にも出てくるが、ルビッチのは絶妙だ。町で公衆電話をかけようとするヘンリーは、向かい側で、あからさまな嘘の電話をかけている美しい娘に興味をもつ。これは後で、口うるさい両親から自分の時間をつくろうとしての嘘だとわかる。

ヘンリーは彼女を追いかけ、本屋でつかまえ、得意の弁舌をふるって、自分に関心を持たせようとする。名も知らない美しい娘。それは、いとこの婚約者だった。自身の誕生パーティーの夜、ヘンリーはその娘マーサをくどき落とし、略奪結婚してしまう。

そして、10年がたった。落ち着いた紳士となったヘンリーが朝食のテーブルにつくと、執事がマーサからの手紙を持ってきた。「私は家を出る。離婚する」と書いてある。わけがわからないヘンリー。観客はもっとわからない。ここがルビッチ・タッチといわれるところで、10年間が全く描かれていないから、マーサの気持が想像もできず、興味をひかれるのだ。マーサは、なぜ、そしてどこへ行ったのだろろうか。

ストーリーを全部書くわけには行かないが、とにかくこの映画は感情にひたることなく、スピーディに軽やかに、ひとりの幸せな男の人生を描いていく。愛する妻。そして妻も、彼にぞっこんほれこんでいる。それにもあきたらず、魅力的な女性を見ると、ついくどきたくなるスマートな伊達男、ヘンリー。なにしろ、彼の死の直接の原因は、美しいブロンドの看護婦に手をとられ、熱が急上昇したことだった。彼が地獄行きを主張するのは、妻を苦しめたことへの、贖罪のきもちからだろう。

話を聞き終わって、閻魔大王は言った。「君は天国へ行けるだろう。君は女達を幸せにしたのだからね」

いえ、私は、天国のドアマンに中へ入れてもらえないだろうとヘンリー。

「本館はむずかしいかもしれないが、別館の小部屋ならはいれるだろう。そこは、日もささず、せまいのだがね」

このへんは、天国を一流ホテルのイメージでとらえていて、面白い。

「本館に移るには、数百年待たなければ、行けないかもしれない。でも大丈夫だよ。愛する人が、君を待っていて、本館に入れるよう、推薦してくれるはずだから」

マーサのことだ。

そのとき、後方のエレベータがあき、閻魔大王がヘンリーをそこへ導く。制服のエレベーターボーイが閻魔大王に聞く。[down?]

閻魔大王は、天井をさして、こう言った。[UP!]

THE END

ところで、どこに宝石が出てきたのか、とお思いかもしれない。それは、結婚10年後に、マーサが家出したわけと関連している。実家に戻ったマーサをヘンリーが迎えにくる。それは10年目の結婚記念日だった。ヘンリーは胸から、ダイアモンドのネックレスらしきプレゼントを手渡す。箱しかうつらないのではっきりわからないが。

マーサは怒り出す。「まあ、これは一万ドルもしそうだわ。私を一万ドルで買い戻すつもり」 泣きそうになりながら、マーサは小さな薄い紙をとりだす。それは、カルティエの領収書だった。「私はブレスレットなんかもらったことないわ」

驚いたヘンリーは、何かの間違いだ、と否定する。

「今までカルティエが間違ったことが、あって?」

その薄っぺらな紙一枚が、ヘンリーの華麗なる女性遍歴と宝石の関わりをほうふつとさせる。別の女性との浮気現場も、宝石を贈るシーンもひとつも出さずに、ルビッチはそれを感じさせる。このシーンは同時に、マーサのこの十年の、苦悩と幸せを凝縮して見せていた。けれどもマーサはヘンリーを愛していた。再び実家から駆け落ちするのである。幸せすぎる人生。

この映画には、悪い人はひとりも出てこない。ただ、ヘンリーの苦手とするのが、きまじめすぎるいとこや、けんかばかりしているマーサの両親、人の迷惑に気づかない幼なじみの女性(彼女は閻魔大王に地獄へ落とされる)などで、洗練された快楽こそが美である、という、ルビッチの強烈なメッセージが伝わってくる。

なにしろヘンリーの最後の夢は、豪華客船での旅だった。その煙突は、大きな黒い葉巻なのである。海は、ウィスキーソーダでできていた。遠くに浮かぶ救命ボートの上では、ブロンド美女が手を振っていた。酒と葉巻と美女を愛した男 主人公のヘンリーは、そのままルビッチ自身でもあった。

快楽主義者ルビッチは、グレタ・ガルボ主演の「ニノチカ」では、ダイアモンドを小道具に使っている。また、彼が製作にたずさわった「真珠の頸飾り」では、マレーネ・ディートリッヒ扮する女詐欺師に、極上のパールのネックレスを戦利品とさせている。

「アパートの鍵貸します」などで有名な監督ビリー・ワイルダーは、ルビッチの弟子のひとりだった。彼は、オフィスにこんな文章をでかでかと貼り、アイデアにつまるたびに見つめたのだという。「エルンスト・ルビッチなら、どうしただろう」。

近況(本稿執筆当時)

これを書いているのは、桜の季節です。桜とダイアモンドは、どこか似ている。私は以前から、そう思ってきました。どちらも、大人にこそ、その美しさがしみじみと胸にしみる。「赤毛のアン」がそうだったようにダイアモンドの美しさは、子どもの頃にはわかりません。むしろ、色石のほうが心に響きます。桜もそうでした。色も薄いし、無味乾燥な花…と思ったのが、ある日、突然、その狂気のような美しさに気づき、胸が痛くなったのを覚えていきます。あの春、大変なことが起きたのでした。去年の秋は、大きな手術をして人生観が変わりました。自分がどこにいくのかわからない。それを見つめていたい。今年は、そんな春になりました。

岩田裕子