欲望の翼

シネマの宝石学
―洗練された大人のおとぎ話17

愛する真珠たち(2)

当たり前の普通の女がどうしようもない男と出会ってしまうお話。冒頭のシーンは、密林が風に揺れる幻想のフィリピン。奇跡のように美しい。ウォン・カーウァイ監督作品である。

1960年代の香港を舞台にしたこの映画にも、どうしようもなく魅力的で、女を狂わせる男が登場する。レスリー・チャン演じるヨディは、”愛する真珠たち(1)”で紹介した「キリマンジャロの雪」の主人公ハリー以上にどうしようもない。ハリーには、小説の執筆という目的があったが、ヨディには、なにもないのだ。ただ、むなしい毎日を暮らすだけ。

彼が愛しているのは、女たちより、育ての親である義母。女たちには、まったく執着を見せない彼だが、母には「一緒に死のう、どこにも行かせない。」と執着を見せる。しかし母は冷たく、自分のボーイフレンドのことばかり考えている。ヨディは、実の母が住むというフィリピンに想いを馳せ、そして、絶望する。

この映画には、ヨディの犠牲者たる二人の女が登場している。女のひとりは、不幸の塊みたいなスー・リー・チャン(マギー・チャン)。サッカー場の売店で働く、地味な女だ。あんな男には、出会わない予定の女だった。一瞬愛されたことが、苦しみの幕開けになった。忘れたいのに、忘れられない。

「つめたい人なのね。」「何しに来た。」「荷物を取りに。」「不幸になるぞ。」「わたしを愛したことはある?」今日も、世界中のあちこちでささやかれているだろう会話だが、それでも、苦しいことにはかわりがない。

もう一人の女とともに、ドロップタイプのイヤリングが登場する。大粒の涙型の真珠に、ダイアモンドをはめこみ、きらきらと輝く大粒の真珠は、真珠の忍従をみせるマギー・チャンではなく、勇敢に男を追いかけていく、妖艶な踊り子ミミ(カリーナ・ラウ)の手元にあった。静と動。正反対の女だが、どちらも、レスリーの犠牲者であることに変わりない。

その真珠は、ヨディの母のものだった。母の恋人のもとにあるのを、ヨディが暴力沙汰を起こして、取り返したのだ。ミミがイヤリングを拾った。その本物のきらめきは、ミミの生活にはないものだった。ほしいと思う。ヨディは、「やるよ」といったけれど、投げられたのは、片方だけだった。「もうひとつは?」後でやる、と男は女を誘い出した。見え透いた手口だが、レスリー(ヨディ)なら、のってしまうかな、と思わせられる。

真珠につられて始まった恋だった。それでも女は夢中になった。スー・リー・チャンのように、あきらめようともがいたりはしなかった。しまいには、彼を養うため、ホステスになると決意した。踊り子よりは、格段に見入りがいい。世間知らずのスー・リー・チャンとは違い、計算高く、誇り高く、あばずれといってもいい女だったが、レスリーには、弱く、初恋のように純情だった。

だまされるのは、不幸だろうか。これほど深い絶望には、甘美さも伴う。愛しても、報われることのない夢。ふたりで溶け合うように眠っていても、決して手が届くことのない男。字面で読んだら、こんな男に引っかかるなんて、馬鹿らしいと思うだろう。しかし、実際に、レスリー・チャンをみてみれば、この男なら、と思う。

レスリーは、こんな役をやると、どうしてこれほどうまいのだろう。ハンサムといっても、顔立ちだけでいったら、どれだけでも上がいるだろう。そうではなく、彼自身のもっている蜜のような、苦味のある甘い冷たさ。彼の演技力とともに。そして、監督ウォン・カーウァイの魔法である。

やがてヨディは、本当の母にあうため、フィリピンに行ってしまった。突然、消えてしまった男を追って、ミミもフィリピンへ旅立った。さっそうと、彼に会える幸せに輝いて。しかし、男はすでに死んでいた。列車のなかで、虫けらのように、みじめに射殺されて。罪作りな映画。何故こんなに切ない映画を作るのだろうか。

真珠とともに、人生を変えてしまったミミ。実際、この映画の続編ともいえる「2046」には、ヨディへの思いを捨てきれず、絶望のふちにおぼれる中年のミミが登場する。このころの絶望には、もう甘美さはない。ミミもまた、男を愛しつくす真珠の女だった。あのイヤリングのなめらかなフォルムは、スタイル抜群なミミの悩ましい曲線にもよく似ていた。

近況(本稿執筆当時)

今年もあっという間に夏。先日、浴衣を新調してから、もう一年たったとは!もうすぐ花火の季節。花火を題材にしたお話を書きたいと思っています。文化出版局「ミセス」で連載中の「宝石を巡るお話」。8月号では、シャネルの新作である極上の真珠に、かわいいお話を添えています。また、インターネットで連載中の「童話の中の宝石」が、8月末で終わりますので、よろしければ、ご覧くださいね。7月は、「若草物語」です。テレビ東京「レディス4」にときおり、数分、登場するかもしれません。

岩田裕子