シネマの宝石学
―洗練された大人のおとぎ話03
猫目石と女の関係
人間よりえらいと思ってる。所有されるのでなく、所有させてあげると思ってる。怠けるのが好き。ときおり気まぐれなまばたきをして、人間たちを魅了する。これって猫のこと? 宝石のこと? 猫と宝石は、どこか似ている。その昔、ケーリー・グラントが演じた宝石泥棒はキャットと名乗っていた。そのせいで、というわけではないけれど。
『不思議な国のアリス』に登場するチェシャー・キャット。不気味な笑顔が特徴の不思議な猫で、笑った形の口だけ残して、あとは消えてしまうのが、彼の得意技。その消えるまえの一瞬の瞳の輝きが、猫目石を思わせると、ある詩人にささやかれたことがある。
動物の名をもつ宝石、猫目石には、一種、野性的な妖しさがただよっている。眠ったような半透明の蜂蜜色を、瞳孔にも似た、ひとはけの光が横切り、角度によってちらちらと動く。こっちを見つめて、す早くウインクでもしたかのように。西洋の言い伝えでは、外面的な美しさと力を与えてくれる石。起伏の激しい人生をひきよせると言われた。また、東洋では、怠惰な人が身につけると、いっそう怠惰になるといましめられた。
そんなキャッツ・アイが登場する映画が1962年に日本で封切られた『瘋癲(ふうてん)老人日記』なのである。谷崎潤一郎の原作を、当時、質の高い娯楽映画の第一人者だった監督、木村恵吾が作品化したものだ。病気の老人が主役の映画といったら、地味な社会派のストーリーかと思いがちだが、谷崎潤一郎の世界はちがう。幾重にも屈折した究極のエロティシズムが描かれている。
主人公は77歳の老人・卯木督助。看護婦づきの老人だが、社会的には成功しており、美食や観劇など、世の楽しみを味わいつくしている。今、体の自由のきかなくなった督助の関心は、息子の嫁、若くて美しい颯子に集中しているのだ。
もと踊り子だった颯子は、今は洗練された品のよい奥さまぶりだ。夫は浮気をしているらしいけれど、ある程度、贅沢もできる暮らしを、それなりに満喫している。彼女は、養父が自分に執着しているのを知っている。その関心をうまく利用して、車だのハンドバックだの買わせたりしている。
颯子のそんな、ちょっとした悪女ぶりを、今まで遊びつくしてきた老人、督助は喜んでいる。まるで自分の病気を利用するようにまでして、督助は颯子に甘え、近づこうとする。颯子はあからさまに邪けんにするのだけど、その冷たささえ、この何もかも手に入れた老人には、新鮮で心地よい。二人のいじめいじめられ関係は、屈折した心理ゲームの要素を帯びてくる。そのクライマックスに、極上のキャッツ・アイが登場するのである。
実は、督助老人、金持ちでありながら、お金にはシビアなのである。実の娘が、家が抵当に入りそうなので、少し援助してほしいと頼みこむのでさえ、渋い顔をしてうんと言わないほどだ。その督助に、颯子が「キャッツアイを買って」とねだったのである。督助は、颯子がかわいいにはちがいないが、そのキャッツアイは、300万円もするというのだ(この物語は1961~2年に書かれている)。
ここで颯子のねだったのが、ダイアモンドでなくキャッツアイだというところが、いかにも宝石を知りつくしている贅沢好きの女の雰囲気で、とてもよい。ダイアモンドでは普通すぎる。猫目石がほしいというところが、彼女自身の洗練された趣味をもほうふつとさせるのだ。
しかし、督助はそれを拒否する。いくら嫁の色香に迷ってはいても、それは高すぎる、と正気に返ったのだ。ここからが、颯子の腕の見せどころである。彼女の色っぽさは、これまでにも増して、とろりと甘い。督助は、その魅力に敗北し、颯子の指には、指の幅からはみ出るほど大きい、15カラットのキャッツアイが光ることとなったのだ。
彼 女 は そ の 石 を は め て 、 恋 人 と ボ ク シ ン グ 観 戦 に 出 か け る の で あ る 。 野 球 で も 相 撲 で も 、 も ち ろ ん 時 代 的 に い っ て サ ッ カ ー で も な く 、 ボ ク シ ン グ 観 戦 と い う と こ ろ が 、 谷 崎 の う ま い と こ ろ だ 。 キ ャ ッ ツ ア イ に は 、 少 年 た ち も 夢 中 に な る よ う な 、 さ わ や か な ス ポ ー ツ は 似 あ わ な い 。 ひ と つ 間 違 っ た ら 死 に も つ な が る 、 血 の 匂 い の す る ス ポ ー ツ 、 ボ ク シ ン グ だ か ら こ そ 、 キ ャ ッ ツ ア イ の 、 と ろ り と し た 大 人 の 味 わ い 、 野 性 的 な 輝 き に 負 け な い の で あ る 。 ボ ク シ ン グ と 、 猫 目 石 は よ く 似 あ う 。
こ の 督 助 を 演 じ た の は 、 品 の い い 老 紳 士 役 の 多 い 俳 優 、 山 村 聡 だ っ た 。 颯 子 役 は 、 若 尾 文 子 で あ る 。 当 時 2 8 歳 、 匂 い た つ よ う な 美 し さ の 絶 頂 に あ っ た 。 今 、 知 ら な い 人 も 多 い の だ ろ う が 、 若 尾 文 子 は 、 す ご い 女 優 な の で あ る 。 マ ニ ア ッ ク な 映 画 好 き は 、 ミ ニ シ ア タ ー の 若 尾 文 子 特 集 に 、 飛 び つ く よ う に し て 集 ま る 。 私 自 身 、 傘 も さ せ な い よ う な 大 嵐 と 落 雷 の 中 、 彼 女 の 主 演 作 を 見 る た め に 渋 谷 ま で 出 か け た こ と が あ っ た 。
1 9 6 0 年 代 は 、 邦 画 が 全 盛 期 の 最 後 の 輝 き を 放 っ て い た 頃 だ っ た 。 当 時 の 邦 画 の 質 の 高 さ は 、 今 、 見 て も 衝 撃 を 隠 せ な い 。 若 尾 文 子 は 、 そ の 当 時 の 大 ス タ ー だ っ た 。 可 愛 く て 、 罪 深 い 、 大 人 の 女 が 演 じ ら れ る 数 少 な い 日 本 の 女 優 の ひ と り で あ る 。 フ ラ ン ス で い え ば 、 ジ ャ ン ヌ ・ モ ロ ー の 成 熟 と ブ リ ジ ッ ト ・ バ ル ド オ の 可 愛 ら し さ を か ね そ な え て い る 。 日 本 よ り イ タ リ ア や フ ラ ン ス で 人 気 が 高 い と い う の も う な ず け る 。
谷 崎 潤 一 郎 の 濃 密 な 世 界 を 表 現 で き る ほ ん の ひ と に ぎ り の 女優 の ひ と り 。彼女 は 、 こ の 作 品 の 他 、 「 卍 」 「 刺 青 」 と い っ た 谷 崎 の 中 で も ひ と き わ く せ の あ る 名 作 に も 主 演 し 、 す ば ら し い 演 技 を 見 せ て い る 。
さ て 、 「 瘋 癲 老 人 日 記 」 に 戻 る が 、 本 で 読 ん だ と き に は 、 私 は こ の 嫁 に あ ま り 好 感 が持 て な か っ た 。 私 の 読 み が浅 い た め だが 、 物 欲 が 強 い 、 外 見 だ け の 女 に 思 え た の だ 。 し か し 映 像 で 、 あ で や か な 若 尾 文 子 を 目 に し た と き 、 印 象 は ち が っ た 。 も し 督 助 に 出 会 わ な か っ た ら 、 た だ の 少 し 計 算 高 い 、 か わ い い 女 で す ん だ の か も し れ な い 。 そ れ が 老 練 な 督 助 の 手 練 に や ら れ 、 次 第 に 悪 女 ぶ り を 助 長 さ れ て い っ た の で は な い か 。
遊 び つ く し た 贅 沢 な 老 人 の 美 し い 生 き た 人 形 に さ れ た と し た ら 、 1 5 カ ラ ッ ト の キ ャ ッ ツ ア イ く ら い 、 も ら わ な く て は ひ き あ わ な い の で は な い の で は な い の だ ろ う か 。
ボ ク シ ン グ 観 戦 の 折 り 、 若 尾 文 子 の 白 い 小 さ な 手 に は め ら れ た キ ャ ッ ツ ア イ は 、 あ ま り に 大 き く て 、 か 細 い 指 が 折 れ そ う だ っ た 。 そ れ は ま る で 、 老 人 の 過 剰 な 愛 に あ え い で い る 女 の 不 安 定 な 心 境 を そ の ま ま 現 し て い る よ う だ っ た 。
そ ん な 人 間 ど も の 人 生 模 様 な ど ど こ ふ く 風 、 猫 目 石 は 、 今 日 も あ で や か に ま た た い て い る 。
岩田裕子