真実のマレーネ・ディートリッヒ

シネマの宝石学
―洗練された大人のおとぎ話07

マレーネ・ディートリッヒ 生きた宝石(1)

今、何故、マレーネ・ディートリッヒなのだろう。この秋、渋谷のル・シネマで「真実のディートリッヒ」という映画が単館上映された。ディートリッヒの孫デイヴィッド・ライヴァが監督したドキュメンタリーで、彼女の長い生涯を、数々の友人、知人の言葉や、過去のフィルムを通して、解き明かしたものだ。映画は、人気を呼び、その後、全国展開されることとなった。これをきっかけに、ディートリッヒ映画祭のようなものも開催され、彼女の古い映画が、一挙に上映されるなど、今、注目をあつめている。

ディートリッヒは、1901年に生まれ、1992年に、90歳という長い人生を閉じている。リアルタイムで、彼女を体感した人は、ごく限られた世代となってしまっている。そのマレーネが、何故、気になるのだろう。エレガントで、ゴージャス。イブニングドレスに毛皮。そして、宝石。細い眉。こけたほほ。男を惑わす、いたずらっぽい表情。百万ドルの保険がかけられた美しい脚。マレーネを見出した監督スタンバーグの作り出した退廃的な大人の女のイメージ。それはよく知られているが、今、わたしたちをひきつけるのは、そうした、イメージの向こうにいる、もう一人のマレーネ。意志的に人生を選び取り、危険も辞さない、勇敢で、やさしくて、挫折を乗り越えた、新しい、そして本物のマレーネなのではないか。

本名、マリア・マグダレーナ・ディートリッヒ。1901年、ドイツ、ベルリンに裕福な家庭の2女として生まれている。父は貴族の出身ともいわれ、母の実家は、宝石商だった。1924年、映画助監督ルドルフ・ジーバーと結婚。娘マリアをもうけている。

「嘆きの天使」で、鮮烈なデビューをし、きまじめな教師を翻弄する若い娘を演じた頃、彼女は、すでに4歳の娘の母親だった。監督ジョセフ・フォン・スタンバーグは、女優としての彼女にも、一人の女性としての彼女にもほれこみ、彼女を連れて、ハリウッドにのりこんだ。そこから、大スターとしてのマレーネの人生がはじまる。ドイツ時代には、今ひとつ、垢抜けない印象だったが、その美しさには、磨きがかかり、妖艶で、小粋なマレーネのイメージができあがるのだ。

夫のジーバーとは、お互い、愛人を作りながら、生涯別れず、娘マリアの、よき父と母であり続けた。ジーバーには、元ロシア貴族の美しい愛人がおり、マレーネとも、マリアとも、いい関係を保っていた(しかし、その女性は、次第に神経を蝕まれていった)。一方、マレーネの愛人と噂されたのは、作家のヘミングウェイ、レマルク、俳優ジャン・ギャバン、ユル・ブリンナー、アメリカ大統領ジョン・エフ・ケネディと、錚々たる顔ぶれである。なかでも、公認の恋人だったのは、ジャン・ギャバンで、同棲もしていたらしい。しかし、ギャバンは決して離婚しようとしないマレーネに業を煮やし、普通の結婚をするため、去っていった。

マレーネが、40歳を迎える頃、第二次大戦がはじまった。「戦争がわたしの原点」とマレーネは語っている。ベルリン生まれのマレーネを、ヒトラーは広告塔にするため、ハリウッドから呼び寄せようとする。彼女は、断った。それどころか、ナチを批判し、アメリカ市民権を取得してしまう。ナチス・ドイツは、マレーネに裏切り者の烙印を押し、彼女の映画を上映禁止にした。

マレーネは、アメリカのため、1年間、最前線を慰問に歩いた。兵士の士気を高めるため歌ったのが、リリー・マルレーンだった。映画のなかでマレーネは「いつドイツ軍につかまるか、こわくてたまらなかった」、と語っている。ドイツ人でありながら、ドイツの宿敵である、アメリカ兵の慰問をしているのだ。なにをされてもおかしくない。きっと丸坊主にされるだろう、と。

しかし、彼女の感じていた危険は、そんな程度ではなかったはずだ。彼女が捨てたベルリンには、母が一人暮らししていたのだ。いわば、家族を人質にさしだしての、ドイツ批判である。並みの強さでできることではない。マレーネが、母の無事を確かめることが出来たのは、戦争が終結してからだった。その後、やっとのことで再会を果たすが、数ヵ月後、母はひとりベルリンで病死する。マレーネに合えてよかったと言い残して。母もまた、娘と同様、気丈な女性だった。

公式にドイツに戻ったのは、1960年だった。反戦歌リリー・マルレーンを歌うために。90歳でなくなったとき、その亡骸は、故郷ベルリンに運ばれた。棺は、車に乗せられ、ひっそりと墓地に向かったのだが、口コミで、それが市民に伝わった。車が通ると、人々は買ったばかりの花をそなえ、到着した頃には、花で棺が見えなかったという。マレーネは、故国に愛されて、生涯を閉じた。

勇敢で、正義感の強かったマレーネだが、それだけでは、無論なかった。宝石職人の孫であったマレーネは、天性、宝石の似合う女だった。「真実のディートリッヒ」にも、美しいダイアモンドのドッグネックレスを光輝かせて歌うディートリッヒの姿があった。このときの彼女は、すでに、70をこえていたらしいが、その妖艶な美しさは、奇跡というのにふさわしいのではないか。彼女自身が、宝石だったのである。そういえば、友人のひとりだったジョン・レノンは、当時66歳だったマレーネをこう評している。「きらめく宝石」と。

マレーネは、衣類と同様、自分のイメージにあう宝石を自分で買っていた。戦争にも、宝石にも、マレーネは、自分の意志を貫いた。ことに愛したのは、エメラルドとダイアモンド。それ以外は宝石ではない、と言ったとも伝わっている。

マレーネの伝記作家でもある娘マリアによれば、マレーネは、膨大な数のエメラルドをあつめていた。彼女の宝石箱は、蓄音機と同じくらい大きい革の箱だった。どれも完璧な宝石で、おはじきより小さなエメラルドはひとつもなかった。そしてダイアモンドは、4キャラット以下のものは、なかった。とくに大きいエメラルドは、バングルにとりつけると、マレーネの手首がかくれるほどだった。彼女のコレクションは、はめ変えができるようにつくられていた。

彼女の決めたコンビネーションどおり、宝石を選ぶのは、娘マリアの役目だった。「今日はクリップが一つと、指輪と、中型のブレスレットよ」と母がいうと、マリアは器用な動作で、大きなエメラルドを指輪の台にかちりとはめ、別のをブレスレットにとりつけた。すると「白い炎のなかにミニチュアの緑の湖が出現する」と彼女は書いている。地金は、プラチナだったのだろう。

マレーネはまた、結婚指輪のコレクションをしていた。それは、エルメスの裁縫箱にいれてあった。あらゆる男女が贈ったらしい。マレーネは、女性にも、愛されたのだ。贈り主が訪ねてくると、そのひとにもらったものをはめていた。ジーバーから贈られた自分の結婚指輪はなくしていた。

続きは「マレーネ・ディートリッヒ 生きた宝石(2)」をご覧ください。

岩田裕子