キリマンジャロの雪

シネマの宝石学―洗練された大人のおとぎ話17

愛する真珠たち(1)

美しい一粒真珠をじっとみつめていると、なぜか胸が痛くなる。心の底にしまいこんだ悲しみが、どれとははっきりわからないけれど、ふんわりわきあがってきて、それをやさしく癒されるような。そういえば、真珠には人魚の涙という別名もある。この慈愛に満ちた輝きの理由はなんだろうか。

おそらく、生成の過程によるのだ。ある日、貝の内部に、棘などの異物が迷い込む。肉を突き刺されたくなくて、貝はその分泌物で、幾重にも幾重にも包む。長い年月、異物を抱きかかえて、貝は過ごし、やがて痛みは、月の光にも似た、美しい一粒の丸みとして、この世にデビューする。母貝の犠牲的な愛にはぐくまれて誕生する宝石は、その愛を、持つ人にも、目にする人にも、わけてくれるのかもしれない。

そして、今回。 真珠の甘い輝きに似て、どれも、死ぬほど美しい映画たちだ。真珠をまとったヒロインたちは、それぞれが愛に苦しみ、しかしその母性にも似たやさしさで、愛する男たちをゆるしていく。

「キリマンジャロの雪」

ヘミングウェイ原作のこの映画は、原作者自身を彷彿とさせる流行作家(グレゴリー・ペック)の、女性遍歴と、後悔を描いている。とんでもないプレーボーイの作家ハリーは、ゲームのように恋愛し、冒険のような人生を生きている。若き日、それこそ正しい作家の道だと伯父に教えられ、生涯、守ってきたのだ。

しかし思いもかけない不幸が襲った。何人目かの妻とアフリカでの狩り旅行を楽しんでいるさなか、破傷風にかかり、命が危なくなったのだ。霊峰キリマンジャロを仰ぎ見る野営地で、ベッドに横たわり、彼は自身の生涯を思い返していた。彼の生涯には、少年時代のガールフレンドからはじまり、さまざまな女たちがかげを落としていた。しかし、彼が本当に愛した女性は、ひとりだった。

彼は死の床で、後悔にうなされた。後悔の第一は、小説のような人生をおくりながら、それを作品化していないことだ。小説を書くために選んだ生き方だったはずなのに、名声と贅沢と恋におぼれ、気がついたらただ享楽の日々だった。

そして、もうひとつの後悔。彼は、苦しむ。自分を愛し、死んでいったその女を思って。愛よりも、自分の生き方が大事だと思ったからだ。その後悔が、この映画を、甘く、ほろ苦く、作っている。苦い過去。思い出すと苦しい思い出。

その女は、尋常ではない美しさだった。シンシアとは、パリのジャズ喫茶で出会った。美しすぎるモデルの彼女と、ハリーはたちまち恋に落ちる。派手な容姿とは裏腹に、シンシアは、家庭的であたたかい普通の女だった。ハリーに対し、掛け値なしの献身的な愛情を注いだ。ある日、彼女は妊娠していることに気づく。そろそろお祭り騒ぎのような生活は終わりにして、地道に暮らしたいと願うシンシア。

しかし妊娠しているとはっきり告げる勇気はなく、静かに暮らしたいと遠まわしに伝えた。しかしハリーは、野心的だった。もっともっと世界中を見て回らなければ、一流の作家にはなれないと信じている。彼は、スペインへ闘牛を見に出かけたいのだ。「僕にとっては、旅こそが人生。落ち着くのはまだ早い」とはっきり言われた。

彼に妊娠したと告げたら、いったいどういう顔をするだろう。シンシアは怖かった。出かけるハリーを追って、階段の上にたったシンシアは、白いワンピースに淡い緑のスカーフを巻き、首には、一連の清楚な真珠を巻いていた。真珠の化身の美しさだった。シンシアは階段から、転げ落ちた。ハリーと生きるため。

もう少し、待つことはできなかったのだろうか。あまり美しすぎるのも、幸せからかけはなれてしまうのだろうか。この日、輝く白をまとったシンシアは、ハリーの楽しみのため、自分の身を痛めたのだ。その結果、命と同じくらい大切な、おなかの子供は死んでしまった。シンシアが殺したのだ。彼女は、子供も平穏な普通の生活もあきらめ、ただひたすら彼のそばにいることを選んだのである。

しかしそれは、むなしい決断だった。体が癒えて後、ふたりでスペインにいったけれども、シンシアは、自分を許せない。そうさせた、彼をも許すことができなかった。マドリードのしゃれたレストランで食事しながら、つい言葉がいやみっぽくなってしまう。こんなはずではなかったのに。ハリーに愛され、ハリーと幸せになりたかったのに。

彼女は恐れた。こんないやな女であれば、早晩彼に嫌われるだろう。いつかきっとすべてを失うことになる。そうなれば生きていけない。シンシアは失踪した。彼女をじっと見つめていた若いフラメンコダンサーとともに。その日のことを思うと、ハリーは、胸が張り裂けそうだ。

何年たったのだろうか。ハリーには、さまざまな出会いと破綻があり、シンシアにもそれはあっただろう。やがて、二人は再会する。それは、内戦下のスペインだった。時間がたち、思いの深まっていることをお互いに実感する。しかし、二人の幸せはほんの一瞬しか続かなかった。彼女は爆撃を受けたのだ。シンシアは、ハリーの腕の中で死んでいった。苦しい息のなか、愛してる。許して。とつぶやきながら。

あの日、真珠の化身のように、白く輝き、階段から落ちた日、シンシアは子供とともに、死んでしまったのだろう。生きていた何年間は、美しい珠を失った母貝のように、むなしい日々でしかなかった。彼女の無償の愛は、ハリーの心をどれほど癒したことだろうか。

岩田裕子